ここでは、江戸期 (江戸時代) に全国規模で作成された国絵図のうち、若狭国絵図について詳細をまとめています。一覧は末尾にあります。
(1) 概要
若狭国は五畿七道のうち北陸道に属する国である。国立公文書館所蔵の『天保若狭国絵図』は紅葉山文庫旧蔵が現存し、『天保国絵図若狭国』(#763937) としてオンライン公開されている。

(2) 若狭敦賀之絵図
『若狭敦賀之絵図』は、小浜市に現存し、デジタルアーカイブ福井でオンライン公開されている国絵図である。

本図の大きさは長辺 479cm × 短辺 239cm で、描かれている範囲は小浜藩領である (飛地は除く)。つまり若狭国の遠敷・大飯・三方 3郡のほか、越前国 敦賀郡も含めて描かれている。本図の国郡高は、正保3年(1646) 3月『若狭越前近江国郷帳』※1に一致する。この郷帳もまた、若狭国のほかに越前国 敦賀郡を含み、さらに小浜藩領の飛地・近江国 高島郡の一部を含んでいる。
本図の余白部分 (畾紙) の目録に記載された国郡高は以下のとおりである。
上記で越前国 敦賀郡の郡高が本図といわゆる寛文印知 (寛文4年(1664) 4月5日付『酒井忠直宛領知判物・目録』) とで異なるのは、寛文印知が酒井忠直に与えられた所領、つまり小浜藩領の 21,196.8410石だけを含むのに対して、本図では寺社領 171.5900石まで含んでいるためである。
様式に注目すれば、本図は村のオブジェクト (小判形) は郡別に彩色され、街道には一里塚があって主・副 (本・脇) も区別されている。見る限りは必要十分な道程情報・沿岸地形情報・国境情報も記載され、多くの部分で正保国絵図の様式に合致する。このため、目録も本図を「幕命によって全国一斉に作成された正保国絵図の控図です
」としている。
しかし、本図の小浜城下の描写は正保国絵図としては異常で、具体的な景観を周囲の縮尺を無視して拡大描写している上、それが極端である。これは敦賀町・高浜村も同様で、さらにほかにも家屋を複数描写する箇所が多く存在する。敦賀町については、『正保越前国絵図』の敦賀郡と比較すればその差異はわかりやすく、そもそもその『正保越前国絵図』の敦賀郡の存在によって、本図の敦賀郡の描写が正保国絵図としては正式なものではないといえる。一国単位の原則が守られていないことからいっても、本図は「小浜藩領絵図」であって、正保国絵図の作成にあたって小浜藩が作成した入力 (材料) のひとつと考えるのが正しいだろう。また『正保若狭国絵図』を念頭に置いた場合は、その控図とはいえない。
本図では、小浜城下とともに小浜湾が拡大描写され、湾を取り囲む二つの半島も変形が著しい。しかしこの描写は『天保若狭国絵図』でも同じであり、本図の若狭国の部分は確実に『正保若狭国絵図』の正本に反映され、そのまま元禄・天保へと継承されたのだろう。
なお、城下を具体的に拡大して描くのは寛永国絵図の特徴のひとつであり、本図は『寛永若狭国・越前国 敦賀郡絵図』といえるものか、それをベースに作成されたものである可能性が示唆される。
注釈
(3) 中川忠英旧蔵
国立公文書館所蔵、中川忠英旧蔵の国絵図群 (通称『日本分国図』) には若狭国および越前国 敦賀郡のものが含まれ、現存・オンライン公開されている (#714241)。

本図は一見しただけでも『若狭敦賀之絵図』と同じ系統とわかる国絵図であり、余白部分 (畾紙) の目録に記載された各郡高も一致する。『若狭敦賀之絵図』に比べると、本図では村を示すオブジェクト (小判形) には村名だけが記載され、村高は省略されている。また背景の自然描写は簡略化され、淡泊な印象が強い。これらの点からいえば、本図は簡略的に作成された写本に過ぎない。
しかし本図では、『若狭敦賀之絵図』にはない隣国色別の彩色があって、各国名 (丹後・丹波・近江・越前 4国) も明示され、国絵図としてより完成された段階になっている。また目録の数値 (石高) 以外に着目すると、以下にまとめるように同様のことがいえる (表記はすべて新字体・標準表記に改めた)。
| 項目 | 本図 | 若狭敦賀之絵図 |
|---|---|---|
| 表題1 | 「若狭国絵図」 | なし。 |
| 若狭国 3郡の表記 | 「遠敷郡」 | 「若狭国遠敷郡。 |
| 「大飯郡」 | 「同大飯郡」 | |
| 「三方郡」 | 「同三方郡」 | |
| 村数表記 | 「村数」 | 「郷村」 |
| 小計 (若狭国 3郡分) | なし。 | 「若狭三郡高合」からはじまる石高・村数の小計が記載されている。 |
| 表題2 | 「越前国之内」 | なし。 |
| 越前国 敦賀郡の表記 | 「敦賀郡」 | 「越前国敦賀郡。 |
| 飛地 (近江国 高島郡の一部) 分の記載 | なし。 | 「外高七千壱石弐斗三升江州高島郡之内若狭敦賀⊏」 |
本図では、『若狭敦賀之絵図』にはない表題が与えられ、小浜藩領として各郡が横並びであったものが、国単位で明確に分離され、藩領の飛地・近江国 高島郡の一部についての付加情報も記載されていない。ほか「郷村」は標準の「村数」に改められている (ただし総計部分では残存が認められる)。
以上のように本図は国絵図としてより完成されており、『若狭敦賀之絵図』の次の段階にある。中川忠英旧蔵として存在 (伝来) することからいえば、江戸で仕上げられたものなのだろう。景観についても、城下の石垣の描写は本図のほうが緻密で、また街並や寺社も着色され、『若狭敦賀之絵図』の家並が下書きであるかのような印象さえ受ける。
(4) 日本六十余州国々切絵図 若狭国
日本六十余州国々切絵図 (余州図) は、江戸期 (江戸時代) に全国規模で作成されたと考えられている国絵図の 2番目、寛永年間(1624~1644) に作成された寛永国絵図の略図・縮図と考えられている国絵図である。余州図は五畿七道 68国のすべてが秋田県公文書館に現存し、「日本六十余州国々切絵図」の通称も同館のものによる。『日本六十余州国々切絵図 若狭国』は文字どおりに若狭国の余州図であり、『日本六十余州国々切絵図 若狭国』(#15725)として秋田県公文書館デジタルアーカイブでオンライン公開され、大きさは東西 69cm × 南北 105cm である。
ほかに『〔若狭国絵図〕』(T1-64) が岡山大学 絵図公開データベースシステム で公開され、大きさは東西 109.5cm × 南北 78.4cm である。
京都大学 貴重資料デジタルアーカイブで公開されている『日本六十余州国々切絵図 (余州図)』は、「畿内図」「東海道図」「中山道図」「北陸道図」「山陰道図」「山陽道図」「南海道図」「西海道図」に分類されている (『中山道図』は正確には『東山道図』)。これはもともと五畿七道ごとに包紙 (と思われるもの) で分けて保存されていたためとみられる。その北陸道図に若狭国の分は見当たらず、現存しない。通常であれば番号1の「若狭国 一」に含めて公開されている包紙が「越前国 二」に含めて公開され、題簽の「北陸道図 (北陸道圖)」「七幅」それぞれに「若狭欠 (若狹缺)」「中一欠 (中一缺)」と付記されている。
(5) 延宝以前若狭国図
『小浜市史 絵図地図編』(1993) には若狭国絵図が複数収録されている。そのうち江戸前期の国絵図には、『若狭敦賀之絵図』のほかに『延宝以前若狭国図』と『貞享二年以前若狭越前御領分之図』がある※1。
『延宝以前若狭国図』は、延宝2~4年(1674~1676) か、それより前の作成と推定されている国絵図で、蓬左文庫に 1点、南葵文庫に 2点が現存する。蓬左文庫には、残念ながらデジタルアーカイブはまだ存在せず、オンラインで本図を参照することはできない。南葵文庫のデジタルアーカイブ (ほかのコレクションを含む横断検索は東京大学附属図書館のコレクション ポータル) は、まだ点数が少なく、公開されているものには国絵図が含まれない。
『小浜市史』によれば、蓬左文庫所蔵のサイズは長辺 195.0cm × 短辺 133.8cmで、同史にはこれが別刷図として収録されている。一方で、より原本に近いと考えられるのは南葵文庫所蔵のうちの 1枚で、サイズは長辺 310.6cm × 短辺 225.6cm である。蓬左文庫所蔵が収録された理由は「大変大きいために、複製した際の判読の可否を考慮して
」との理由だが、用紙のサイズを大きくすればよいだけであり、技術・予算上の制約だろうとは思われるものの、残念に感じられる。
注釈
(6) 貞享二年以前若狭越前御領分之図
国立公文書館所蔵、松平乗命旧蔵の国絵図群 (通称『日本分国絵図』) にも若狭国のものが含まれ、現存する (#725101)。オンラインでは公開されていない。
この松平乗命旧蔵の国絵図群には、松平乗命から明治政府へ渡る前後 (明治5~6年(1872~1873))に、京都府が一式を借用して忠実に模写したものも存在し、京都府立京都学・歴彩館に現存、館古044: 国絵図という一群で管理されている。その『若狭国絵図』もオンラインでは公開されていないが、目録は国立公文書館デジタルアーカイブよりもやや充実している。
本図の大きさは、写本で長辺 135.2cm × 短辺 77.5cm であり、(松平乗命旧蔵としての) 原本も同等と考えられる。『小浜市史 絵図地図編』(1993)によれば、本図は『貞享二年以前若狭越前御領分之図』と同じ系統の国絵図である。
『貞享二年以前若狭越前御領分之図』は、貞享2年(1685) 以前の作成と推定されている国絵図で、松平乗命旧蔵のほかに、個人所蔵、小浜市立図書館 酒井家文庫所蔵、京都大学文学部博物館所蔵、若狭歴史民俗資料館寄託のものが現存する。
個人所蔵の大きさは長辺 92.3cm × 短辺 48.2cm で、『小浜市史』にはこれが別刷図として収録されている。
小浜市立図書館 酒井家文庫所蔵は『御領分之図』としてデジタルアーカイブ福井でオンライン公開され、大きさは長辺 76.6cm × 短辺 40.4cm である。折りたたんだときに表紙になる部分の題簽に「元禄時代御領分之図 写 (元禄時代御領分之圖 写)」、本図を含む「諸図」を収める帙の題簽に「元禄時代若狭諸図 三折 (元禄時代若狹諸圖 三折)」と記されている。
京都大学文学部博物館所蔵・若狭歴史民俗資料館寄託については、現況を含めて情報を得られない。
(7) 元禄若狭国絵図
『元禄若狭国絵図』は、江戸期 (江戸時代) に全国規模で作成された国絵図の 4番目、元禄年間(1688~1704) に作成された元禄国絵図のうち若狭国のものである。京都府立京都学・歴彩館に現存、館古044: 国絵図という一群で管理されている若狭国絵図には、松平乗命旧蔵とは別に『若狭国絵図』もあり、これが『元禄若狭国絵図』である。オンラインでは公開されていない。
目録によれば、本図の大きさは 北西・南東方向 360.0cm × 北東・南西方向 205.5cm で※1、「元禄13年11月 (写)
」とあるが、「国高・郡高・村高記入アリ、他国への通路・里程の記入アリ、郡別に色わけ
」とあるので、余白部分 (畾紙) の目録奥書に元禄13年11月の日付が記載された正本から作成された控図か、それに近いものを控図として残したか、このどちらかの写本ではないかと思われる。
注釈
(8) 天保若狭国絵図
『天保若狭国絵図』は、江戸期に全国規模で作成された国絵図の最後、天保年間(1830~1844) に作成された天保国絵図のうち若狭国のものである。冒頭で言及したとおり、『天保若狭国絵図』は国立公文書館に紅葉山文庫旧蔵が現存し、『天保国絵図若狭国』(#763937) としてオンライン公開されている。
紅葉山文庫※1は江戸城内にあった、将軍の利用を原則とする書庫 (図書館) であり、勘定所は勘定奉行を長とする役所である。したがって紅葉山文庫旧蔵は保存と限定的な参照を目的に納められたもの、勘定所旧蔵は実務に供されたものとなるが、紅葉山文庫旧蔵も必要に応じて借用・参照されたようである※2。
『天保若狭国絵図』は大きさが北西・南東方向 272cm × 北東・南西方向 390cm で、目録の奥書部分には、全国一律に天保9年(1838) の日付 (『天保9年戊戌五月』) と明楽飛騨守・田口五郎左衛門・大沢主馬の名前が記されている。
注釈
(9) 一覧
(10) 変更履歴
内容
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- 『日本六十余州国々切絵図 若狭国』の記事を追加した。
- 『若狭敦賀之絵図』の記事について、説明を整理した。
- 中川忠英旧蔵にその後の調査結果を反映して追補した。
- 『延宝以前若狭国図』と『貞享二年以前若狭越前御領分之図』の記事から後者を分離の上、一覧に松平乗命旧蔵を追加の上、追補した。また前者も説明を整理した。
- 一覧に『元禄若狭国絵図』を追加し、記事にまとめた。
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- 『天保若狭国絵図』の記事を追加した。
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- 『正保若狭国絵図』(中川忠英旧蔵)・『同』(『若狭敦賀之絵図』・小浜市所蔵) の記事について、タイトルを『中川忠英旧蔵』『若狭敦賀之絵図』に変更し、再検討した結果を反映した。また一覧の分類も「正保」から「寛永」に見直した。
- 若狭国図・御領分之図についての記事を追加した。
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- 『正保若狭国絵図』(小浜市所蔵) について外観を示した。
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- 導入文を追加し、概要を追補した。
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- 一覧に 『正保若狭国絵図』(中川忠英旧蔵) を追加し、『同』(小浜市所蔵)・ 『同』(中川忠英旧蔵) の検討を記事に追加した。
- 『正保若狭国絵図』(中川忠英旧蔵)・『天保若狭国絵図』の外観を示した。
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- 構成を再整理し、概要を追加した。誤字・脱字を適宜修正した。
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- 新規作成。