11. 戦乱と国界
はじめに触れたように動乱の時代にあっても国界の変動は限定的である。しかし以下に示すようにその地域は多く、各地に分散している。ここではそれらを時系列に見ていくことにする。

11.1. 富士見町東部: 甲斐・信濃国界
天文17年(1548) 以降、諏訪は甲斐の武田晴信 (信玄) の領国に組み込まれ、その後 30年以上にわたってこの体制が続くことになった。しかし天正10年(1582) 3月に織田信長によって武田氏は滅亡する一方、6月には本能寺の変が起こって、在地の旧勢力や有力大名の動きが活発となり、諏訪では諏訪頼忠 (頼重の従兄弟) が旧臣らに擁立された。頼忠は徳川家康の配下となって天正11年(1583) 諏訪を安堵され、この間に回復した旧領は甲斐の側に拡大し、そのまま近世以降の甲斐・信濃国界に継承された。

詳細は『18. 富士見町東部』を参照。
11.2. 白山麓十八か村の東谷・西谷 (織豊期): 加賀・越前国界
室町期から戦国期にかけて、浄土真宗 (真宗) 本願寺派の門徒は組織を形成して武力蜂起した (一向一揆)。しかし天正年間(1573~1592) に入ると、織田信長の猛攻によって各地の一揆は壊滅し、加賀国の一揆も天正8年(1580) までに制圧されることになる。この過程で天正7年(1579) 7月、佐久間盛政・柴田勝政 は、手取川最上流域へ越前から谷峠を越えて侵入し、白山麓 18か村のうち東谷・西谷の 16村は征服され、越前・柴田勝家の所領に組み込まれた。これが賤ケ岳の戦い後、天正12年(1584) 丹羽長秀によって豊臣政権下の検地 (太閤検地) が実施され、加賀・越前の近世の国界は確定した。

詳細は『19. 白山麓十八か村の東谷・西谷』を参照。
11.3. 吉田郷 (薩隅日): 大隅・薩摩国界
当地は戦国期から織豊期にかけて、当地は蒲生氏に対する島津氏の前線となって、大隅国でありながら薩摩国の延長のようにみなされつつあった。そこへ天正15年(1587) 3月、豊臣秀吉は大軍を率いて九州への侵攻を開始する。島津義久は抵抗を試みたものの、大軍を前に総崩れとなって撤退を余儀なくされ、同年 5月には降服した。秀吉はこれを受けて義久に薩摩国、義弘 (弟) に大隅国 (一部を除く) を安堵し、このとき大隅・薩摩国界は確定して、当地 (のち吉田郷) は薩摩国として把握されることになった。

詳細は『17.2.1. 吉田郷』を参照。
11.4. 長島: 肥後・薩摩国界
長島は戦国期を迎えるころには薩摩国勢力の圧迫を受けるようになった。そして永禄8年(1565) 出水の薩州島津氏に攻略され、天正9年(1581) までに島津義虎の支配が確立された。このため、天正15年(1587) 秀吉の九州侵攻と島津義久(本家・奥州島津氏) の降服後は、やはり薩摩国とみなされ、肥後・薩摩の国界は北へ移動した。

詳細は『20. 長島』を参照。
11.5. 木曽川・伊勢湾 (織豊期): 尾張・美濃国界
天正10年(1582) 6月2日未明、遠征に向けて本能寺に宿泊していた織田信長を明智光秀が急襲、信長は寺に火を放って自害し、すでに家督を譲られていた長男・信忠も二条御所 (二条新御所) で自害に追い込まれた (本能寺の変)。羽柴秀吉はこの知らせを受け、ただちに備中高松城から京へ駆け戻って光秀を破った (山崎の戦い)。これによって秀吉は同月27日に行われた清洲会議で発言力を強める一方、信長の次男・信雄と三男・信孝は後継者争いから排除され、不満を高める。
しかし、秀吉は信孝と協調する柴田勝家らを天正11(1583) 賤ケ岳の戦いで破り、続いて徳川家康と手を結んだ信雄も天正12年(1584) 小牧・長久手の戦いで屈服させた。その後、天正17年(1589) 秋、美濃国の総検地が行われ、ここで尾張国 葉栗郡・中島郡から近世 美濃国 羽栗郡・中島郡が分割され、さらに天正18年(1590) 秋、信雄退去後の知行再編成・検地のなか尾張国 海西郡から近世 美濃国 海西郡が分割され、ここで江戸初期までの尾張・美濃国界が定まった。

詳細は『21. 木曽川・伊勢湾』を参照。
11.6. 根羽村: 三河・信濃国界
元亀4年(1573) 三河からの帰路で武田晴信 (信玄)は病死する。家督を継いだ勝頼は家康・信長に対抗したものの、天正3年(1575) 長篠の戦いで大敗し、天正10年(1582) までに武田氏は滅びた。武田氏滅亡後、本能寺の変とその後の混乱を経て伊那谷は徳川家康の支配下となり、天正18年(1590) 豊臣政権下で家康が関東に転封されると毛利秀頼の支配となった。このとき検地が行われ、天正19年(1591) の検地帳に根羽村 (近世 根羽・月瀬 2村) は「信州伊奈郡」の「下条領」に含まれ、信濃国して把握された。
詳細は『22. 根羽村』を参照。

なお根羽村にはやっぱり『ネバーランド』がある (レストランなどの複合施設)。
11.7. 志摩: 志摩・伊勢・紀伊国界
南北朝期以来、伊勢・志摩は北畠氏によって支配されていた。しかし天正3年(1575)、伊勢国に進出してきた織田信長によって、強制的に家督を信雄へ譲らされ、その後滅ぼされた。一方、南からは熊野新宮の堀内氏善が勢力を拡大したが、要衝である長島を奪って荷坂峠まで伸長したのは天正10年6月 本能寺の変後の混乱に乗じてである。その後、豊臣政権下の文禄3年(1594) と慶長6年(1601) の検地によってそれぞれ伊勢・紀伊の領域が明らかにされ、近世の国界は確定した。

詳細は『23. 志摩』を参照。
近世の志摩国は志摩半島の部分に限られ、その領域を大幅に狭めた。現在でも「志摩」とは近世の志摩国の範囲であり、本来は志摩だった伊勢には「南伊勢町」が存在し、志摩だった紀伊には「紀北町」が存在する。
11.8. 相原 (高座川左岸): 相模・武蔵国界
鶴間の上流、相原では徳川家康の関東入国とその後の知行割を前提に、文禄3年(1594) の検地を契機として、高座川流路で分割され、北部は武蔵国として把握された。

鶴間と同様、現在でも相模原市 (相模) と町田市 (武蔵) にまたがって「相原」地名が存在し、町田市 相原町には JR横浜線の「相原駅」がある。
詳細は『24. 高座川左岸』を参照。
11.9. 依上保: 陸奥・常陸国界
依上保は、陸奥国 白河郡 依上郷が荘園化・成立し、戦国初期までは一貫して陸奥国として把握されていた。しかし少しずつ常陸国の佐竹氏から圧迫を受けるようになると、永正7年(1510) 白河結城氏の内紛に乗じた佐竹氏が本格的に侵攻し、以後はその勢力下に置かれることになった。その後、佐竹義宣は豊臣秀吉に帰順し、文禄4年(1595) の所領安堵を機に依上保の村々は常陸国 久慈郡として把握され、陸奥・常陸の国界は変動した。

詳細は『25. 依上保』を参照。
「依上」の表記は基本的にこのとおりだが、一部には例外的に「依神」とある。大子町は「依神の里」あたりで売り出したらどうか。水芭蕉の群生地として『依神の森・水ばしょうの里』はある。
11.10. 新方 (利根川・鬼怒川): 下総・武蔵国界
鎌倉公方・足利成氏と関東管領・上杉憲忠の不和・対立に端を発した享徳の乱は、関東全域を 28年間の戦乱に巻き込んだ。この間に成氏が本拠地を古河に移して古河公方が成立し、中世の利根川本流を挟んで諸勢力が睨み合う構図が生まれた。これによって新方地域は下総から切り離され、武蔵国と一体性が増し、混乱のなか岩付 (岩槻) の太田氏の勢力下に入ったとみられる。国界が確定するのはやや遅く、慶長17年(1612) の検地を契機に当地は武蔵国として把握された。

詳細は『28.2.1. 新方』を参照。
11.11. 桐生川 (渡良瀬川・利根川): 上野・下野国界
近世の上菱村・下菱村・小友村にあたる菱地区は、慶長3年(1598) 以後、遅くとも慶安元年(1648) までに上野国から下野国に移され、国界は東の稜線から西の桐生川へ変更された。寛永20年(1643) 榊原忠次が陸奥国 白河へ加増・転封となって、代わりに松平乗寿が入ったとき、周辺地域も含めた所領再編成のなかで国郡も見直されたと推定される。

詳細は『27.1. 桐生川 (江戸初期)』を参照。
11.12. 下妻鬼怒川東流部 (利根川・鬼怒川): 常陸・下野国界
戦国期、常陸国 関城を根拠とする多賀谷氏が勢力を強めて南下し、下妻城を拠点に下総国へ領域を拡大し、両国にまたがった多賀谷領が成立した。しかし天正17年(1589) 多賀谷重経・宣家親子と三経 の二派に分裂し、慶長6年(1601) 関ケ原の戦い後、佐竹義宣に従った前者は没落 (重経)・退去 (宣家) を余儀なくされた。他方、結城秀康に従った三経は加増となったものの越前国 北庄 (現在の福井) へ移ることになった。
これによって当地の領域認識は曖昧化し、初期の国絵図にはその混乱がそのまま反映され、慶長9年(1604) の検地で確定する近世の常陸・下総国界は北へ移された。

詳細は『28.2.2. 下妻鬼怒川東流部』を参照。
11.13. 木曽川・伊勢湾 (江戸初期): 美濃・尾張国界
天正17~18年(1589~1590) に尾張国 海西郡・中島郡から分割され成立した美濃国 海西郡・中島郡のうち、葛木・二老・大成・後江・石田・富安の 6村 (海西郡) と中野村 (中島郡) は、尾張藩初期の所領再編成の過程で元和3年(1617) 以後、寛永5年(1628) までに尾張国へ戻った。

詳細は『21.2. 江戸初期』を参照。
11.14. 葛西 (利根川・鬼怒川): 下総・武蔵国界
戦国期、葛西は後北条氏 (小田原北条氏) の勢力下に組み入れられ、安房国の里見氏に対して前線として機能するようになり、実質的に武蔵国の延長上になっていた。後北条氏も武蔵国として把握していたと見られ、下総・武蔵国界は実質的に変動した。

しかしこの領域認識は豊臣政権には継承されなかった。天正18年(1590) 小田原城の陥落と後北条氏の滅亡後、その旧領は徳川家康に与えられたが、この継承の経緯が要因だったとみられる。豊臣政権下では葛西が下総なのか武蔵なのかは一定せず、この混乱は徳川政権下で作成された江戸初期の国絵図でも継続し、これが解消されるのは次の二郷半・松伏・幸手・島中川辺と変わらない、寛永年間(1624~1644) と考えられる。
詳細は『28.2.28. 葛西』を参照。
11.15. 二郷半・松伏・幸手・島中川辺 (利根川・鬼怒川): 下総・武蔵国界
寛永年間(1624~1644) 下総国 葛飾郡は分割され、西半分 (二郷半領・松伏領・幸手領・島中川辺領) は武蔵国 葛飾郡となった。

詳細は『28.3.1. 葛飾郡』参照。
11.16. 烏川 (渡良瀬川・利根川): 上野・武蔵国界
利根川に烏川・広瀬川が合流する付近では、寛永年間(1624~1644) 上野・武蔵の国界が北へ移動した。葛西がそうだったように関東の領域認識は、後北条氏の滅亡・徳川家康の入国以来、江戸初期は渾沌としている。当地ではこれに河川の乱流も加わって混乱していたものが寛永年間(1624~1644) に見直されたとみられる。

詳細は『27.2. 烏川』を参照。
11.17. 高椅 (利根川・鬼怒川): 下総・下野国界
天正年間、後北条氏 (小田原北条氏) の支配下に置かれた小山氏の本拠・祇園城は、豊臣秀吉の小田原城攻撃の過程で天正18年(1590) 結城晴朝によって攻略され、小山氏は滅亡した。これによって、小山氏の旧領は結城領に組み込まれ、下野・下総の 2国にまたがる領域が形成されることになる。しかし慶長5年(1600) 関ケ原の戦い後、論功行賞で加増・転封となって結城晴朝・秀康は越前国 北庄 (現在の福井) へ移ることになり、当地一帯には空白域が生じて下総・下野国界は曖昧化した。その後、高椅地域では寛永14年(1637) に検地が行われ、下野国として把握された。

詳細は『28.3.2. 高椅』を参照。
11.18. 渡良瀬川 (渡良瀬川・利根川): 下野・上野国界
寛文8年(1668) 渡良瀬川 (現在の渡良瀬川本流の流路) と矢場川 (古代の渡良瀬川本流の流路) の間に位置した村々のうち下流部 (東部) の村々は、下野国から上野国に移された。

詳細は『27.3. 渡良瀬川』を参照。
11.19. 桐生川 (渡良瀬川・利根川): 上野・下野国界
近世の上菱村・下菱村・小友村にあたる菱地区は、寛文8年(1668) 再び下野から上野国に移された。

しかし延宝元年(1673) には三たび国界は変動し、菱地区は下野国に戻った。

詳細は『27.4. 桐生川 (寛文8年・延宝元年)』を参照。