(6) 「下総」と「下野」の混乱
(a) 山川晴重宛知行充行状における「下野国」表記
天正18年(1590)『豊臣秀吉宛行状』※1には、下総国 結城郡の南部から猿島郡にかけての山川領 30郷が記載されているが、表題は「下野国本知分所々目録事」となっている。しかし山川領が下野国と認識されたといえるような事象は見当たらず、一時的であれそのような状況にあったとは考えにくい。結城本郷の文禄4年(1595) 検地帳※2にも表紙に「下野国結城本郷御縄打水帳」とあり、豊臣秀吉宛行状も書き誤りと思われる。
Fig.147 高椅 (下総
下野国界): 寛永14年(1637)
下総の結城郡を下野の結城郡と誤った例は少なくない。宝性寺 (延島村) の慶安元年(1648) 朱印状でも「下野国結城郡延島村宝性寺」となっている。ほかに記述の誤りがみられる史料を、一次・二次資料を忠心にあげておく (三次・四次的な史料や曖昧な表現を含めれば際限ないほど多い)。
- 至徳3年(1386) 『伝後小松天皇綸旨案』※3に「下野国結城郡結城安穏寺」とある。安穏寺は高椅神社などとは異なり、中世~近世を通じて下総国 結城郡の結城本郷に所在・現存。
- 明徳4年(1393)『足利義満御判御教書』※4に「下野國葛西御厨」とある。
- 康正2年(1456)『足利成氏書状』※5に「野州結城御厨エ進旗」とある。
- 『言継卿記』元亀2年(1572) 7月21日の記事※6に「下野国結城方」とある。
- 永享12年(1440)『結城陣番帳写』※7に「下野国結城」とある。
- 『結城家過去帳』※8の慶長13年(1608) や寛永元年(1624) などを命日とする人物の説明に、本国が「下野結城」である旨の説明が散見される。
- 寛永13年(1636)『徳川家光朱印状』※9に「下野國結城郡本鄕內五拾石」とある。弘經寺 (弘経寺) も同じく中世~近世を通じ、下総国 結城郡の結城本郷に所在し、また現存。
- 吾妻鏡の寛永3年(1626) 版 (寛永本)・寛文8年(1668) 版 (寛文本) では、建長2年(1250) 1月13日の記事に「下野国結城郡」とある。Fig.632 吾妻鏡 建長2年(1250) 1月13日記事
Fig.633 吾妻鏡 第40巻 建長2年(1250) 1月13日記事
| 刊写本 | 記述 |
|---|
| 北条本 | 十三日己卯 下総國結城郡自天麦降如焼云々 |
| 慶長10年(1605) 刊行本 | 十三日 己卯 下総國結城郡自天麥降如燒云云 |
| 寛永3年(1626) 刊行本 | 十三日 己卯 下野ノ國結城ノ郡ニ天自リ麥降ル燒ルガ如シト云云 |
| 寛文5年(1665) 仮名献上本 | 十三日 己卯 下野国結城郡𛂋天より麦降燒こ𛁹しと云云 |
| 寛文8年(1668) 刊行本 | 十三日 己卯 下野の国結城の郡𛂌天よ𛃲麦ふ𛃸や𛀰𛃸𛀚゙𛀸゙としと云云 |
- 『奥陽仙道表鑑』第2巻の『結城家由来並浅川合戦之事』※10に「下野国結城を添へて白河郡を領す」とある。
- 『結城秀康卿行状』※11に含まれる家譜に「始ハ下野ノ結城ニ拠、後越前ヲ領シテ」とあり、松平直政事蹟録※11でも「下野国結城ノ城ヨリ」(中略)「越前国ニ移封セラレ給フニヨリテ」とある。
- 『朝倉始末記』第1巻※12では、永享12~13年(1440~1441) の結城合戦について、結城氏朝は春王丸・安王丸をともなって「下野国結城ノ城ニ楯籠リケル」とある。『足利系図』※13の春王丸の箇所でも「下野国結城城挙義兵」。
- 『安藤氏系譜』※14の重信の箇所に慶長17年「下総国小見川・下野国結城ニ於て」加増、元和元年「常陸国鹿嶋・下野国結城・遠江国山上三ヶ庄ニ於テ」加増とある。
- 『松田家系譜』※15の晴朝の箇所に慶長17年「下野結城城主十万千石ヲ領」とある。
- 『奥相志』※16の宇多郡中村の項目に「下野国結城華蔵寺」とある。華蔵寺も中世~近世を通じて下総国 結城郡の結城本郷に所在し、また現存。
そもそも下総と下野は名前がよく似ている上に読みが難しく、しかもどちらも上総・上野と対になってため取り違えやすいようだ。義経記に「治承四年九月十一日、武蔵と下野の境なる松戸の庄、市河といふ所に着き給ふ」とある「下野」は下総の誤りであり、神鳳鈔の写本うち最古とされる神宮文庫所蔵・荒木田氏経筆写本では、下総国の「総」を「ツケ」と読ませている。
Fig.634 神鳳鈔
なお、近世の史料で高椅地域の村々などを指して「下野国結城領」と呼ぶのは誤りではなく、むしろ高椅地域の経緯を的確に表現している。
注釈
(b) 天保郷帳・国絵図の村々
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