国絵図の概要については『第1編 近世の国絵図』を、一覧は『近世国絵図総覧』を参照のこと。
かつて内海だった利根川下流は、江戸期に開発が進んで多くの新田が生まれた。元禄常陸国絵図の景観は以下のようだった。

元禄常陸国絵図では「大浦」以東 (下流側) の新利根川南岸には腋川村と中島村しか描かれていない。新利根川そのものも曖昧に描かれており、このころは一面が低湿地で流路はかなり曖昧だったのだろう。一方、天保常陸国絵図ではその景観は一変し、大量の新田が描き加えられた。

新田のほとんどは「○○村之内○○村新田」とあって石高は明示されていない。また郷帳には記載されず、石高は親村 (母体) に含めて把握された。つまり多くの新田が生まれたのは事実だが、それは基本的に各村の拡張部分だった。天保郷帳・国絵図の性質によるものであり、またこの形式そのものは特に珍しいものではないが、画一的に並べられている点は目を引く。近代に入って独立した村・大字として存在が確認できるものは一部に限られ、ほとんどは親村に吸収された。
これらのうち下須田新田・阿波崎新田は、五箇村新田の下須田村・阿波崎村部分 (下須田出作・阿波崎出作) とは別の新田であって、下総・常陸国絵図で重複して記載されているわけではないと考えられる。五箇村新田は元禄下総郷帳・国絵図から存在する一方、下須田新田・阿波崎新田は天保常陸国絵図ではじめて描かれた。しかし下須田新田・阿波崎新田が新利根川以南に描かれることによって、天保常陸国絵図では元禄に比べて新利根川流路が河口のほうへ延長され、下総国絵図との不整合を生じることになった。

もっともこの不整合は、下総国絵図で新利根川が国界となっている区間を上流側へ向かって実際より長く描いている影響もある。元禄国絵図では国絵図特有の不正確さはともかくとして、双方の国界付近は正確に一致していた。

『迅速測図原図』における国界も下総・常陸の元禄国絵図のとおりで、下須田村・阿波崎村は新利根川から離れている。

なお天保常陸国絵図では「大浦」(大浦沼) が省略されているが、迅速測図原図によれば近代まで平須沼とその周辺の低湿地とともに残った。

おそらくかつては低湿地全体が本来の大浦沼であって、その周辺にさらに低湿地が広がっていたのだろう。この景観からすれば天保国絵図に描く規模ではなくなったということかもしれないが、下総国絵図には引き続いて描かれているので、単に新田を詰め込む空間を捻出するためだったと推定される。中島村が新利根川の南岸 (元禄) から北岸 (天保) に移されたのは、名前のとおりに中洲状の土地にあった村域が最終的に北岸と一体化したためだろう。
かつての内海に生じた、散在する中洲の周囲を干拓・開発した新田。「新島領」や単に十六島とも。天保郷帳の順に松崎新田・中島村・六角村・結佐村・上島村・西代村・八筋川村・卜杭村・大島村・三島村・境島村・扇島村・加藤洲村・磯山村・中洲村・長島村の 16村。扇島・加藤洲・磯山はより下流にあり、本稿地形図の範囲を外れる。
『根郷五箇村谷地御定納記』、および本史料などを参照する『佐原市史』(1968/1980)・『東町史 史料編 近世1』(1995)・同 通史編(2003) によれば、上之島・西代・八筋川・中島は天正18年(1590)、卜杭は慶長5年(1600)、長島は慶長10年(1605)、六角は慶長19年(1614)、大島・三島・扇島は元和10年(1624)、加藤洲は寛永3年(1626)、境島は寛永5年(1628)、結佐・松崎は寛永7年(1630)、中洲は寛永8年(1631)、磯山は寛永17年(1640) からそれぞれ開発されたという。ただし史料によっては、西代は文禄3年(1594)、八筋川は慶長5年(1600) ともある。
なお、結佐村は神崎庄所課祭礼物注文に地名が含まれることから、いったん荒廃した土地が再開発されたのではないかと思われる。