29. 伊豆山権現領
元禄13年(1700) 相模・伊豆の国界は、伊豆山権現・小田原藩の対立から発生した争論 (境論) をきっかけに変更され、伊豆国の内に相模国の村々が飛地として存在することになった。

29.1. 経緯
元禄14年(1701) 12月『伊豆山権現領百姓返答書写』※1によれば、万治年間(1658~1661) からこの対立はあって、伊豆山権現が北の門川 (現在の千歳川) およびその延長線上の谷筋を相模・伊豆の国界と主張するのに対し、小田原藩は南の稜線 (分水嶺) を主張していた。

伊豆山権現が山全体を神域 (境内) ととらえるのは正論といえる。しかし相模・伊豆の国界は、相模国 足柄下郡の『正保改定図』では山陵で表現され、千歳川に相当する川筋と稲村は相模国内に描かれている。

『寛永伊豆国絵図』 でも国界は山陵であって、「権現領」から国外へのびる道に「此境ゟ相模国稲村近所迄道法壱里九丁五拾七間」とあることから稲村はその向こうとわかる。つまり小田原藩の主張の方が正しい。

地形的にも千歳川の両岸でひとつの領域が構成され、稜線が境界として認識されるのは自然といえる。一方で、谷筋から平地部 (現在の湯河原町 市街地) に出た千歳川は南に偏って流れるため、利用可能な土地はほとんど北側にしかなく、南側の利用は限定的だったかと思われる。
『伊豆山権現領百姓返答書写』によれば、万治年間(1658~1661) の対立では以下のような経緯があった。
伊豆山権現領百姓返答書写 小田原藩の役人と土肥の百姓 (と伊豆山権現) の三者が立ち会い、神文 (起請文) をもって伊豆山四至牓示の御絵図を仰せ付けられた。その際、小田原藩の役人と土肥の百姓は鳴沢石引道 (小田原藩・土肥住民の主張する境界) までが相模国であるとして、付箋をその絵図に貼った上で提出したが、評定所では『御朱印御文言』と違っていることから、その付箋は取り払われ、また国界に立つことはなかった |
原文: 小田原御役人幷土肥百姓三方立合、神文を以伊豆山四至牓示之御絵図被為仰付候、其節小田原御役人幷土肥百姓鳴沢石引道を限り相模分にいたし、右御絵図ニ張紙仕差上候得共、於御評定所ニ御朱印御文言ニ相背き申由ニ而、右之張紙御取捨被為遊、両御国境ニ御立不被遊候 |
つまりこのとき、評定所では『御朱印御文言』を根拠に小田原藩・土肥住民の主張は否定され、そのまま現地調査は実施されないまま裁許された。
元禄年間(1688~1704) の対立はこのような前提のもとにはじまった。端緒は土肥 (小田原藩) の住民が権現領から石を切り出したことにあり、伊豆山権現領の住民がこれに抗議したことから再び争論 (山論・境論) に発展した。『新編相模国風土記稿』によれば、はじまった時期は元禄11年(1698) である。
前述のとおり、江戸初期にはすでに稲村が存在していた。千歳川の南岸も入会地として利用されるようになって小集落も形成されていたようだ。伊豆山権現 (伊豆山村) がこれを黙認していたのか、それとも小競り合い程度は日常的にあったのかはわからないものの、どちらにせよ、神域の一部が具体的に切り出されるという事態にいたって我慢の限界を超えたといったところだろうか。
元禄13年(1700) の裁許状※2によれば、万治年間(1658~1661) の裁許絵図と、伊豆山権現が提出した「御朱印載せらる権現領縁起の写四至牓示の図」が現地で照査された結果、国界については伊豆山権現の主張が認められた。つまりこのときの裁許も万治年間(1658~1661) を踏襲するものになった。
元禄一方で、すでに形成されていた塩坪・寺坂・和泉の 3集落の存在および相模国かつ小田原領であることも認められ、伊豆国内に所在する相模国の飛地として存在することになった。いわば折衷案であって、両者の主張を取り入れつつ現実的な解決策が模索された結果といえる。
注釈
29.2. 小田原藩から見た国界の変更
この経緯について『湯河原町史』※1は以下のように評価している。
湯河原町史の評価 小田原藩の全くあずかり知らない、伊豆山と熱海村との境界争いで、いつの間にか」万治年間(1658~1661) の議論が行われ、元禄13年(1700) の裁許の決定的な論拠が形成されてしまい、その「驚くべき事実が、40年後に持出されたのである |
しかし実際には、万治年間の際にも小田原藩の役人と土肥の住民も立ち会っているし、その意見も (最終的に取り払われたが) 絵図に貼付の上で提出された 。小田原藩は貞享3年(1686) に稲葉氏から大久保氏に入れ替わっているが、仮に本当に「全くあずかり知らない」のであれば、それは引き継ぎか村役人との意思疎通の問題だろう。同じことを小田原藩が伊豆山権現に主張していたのなら言い掛かりに近い。
また「『御朱印』という覆すことのできない権威の前に」ともあるが、基本的に大名 (1万石以上) は御朱印・朱印状で領知される上、10万石以上となれば御判 (花押)・判物となって※2、元禄13年(1700) 時点で大久保氏の小田原藩は 11.3万石である。大名と寺社を単純に比較することもできないが、少なくとも朱印状・判物における格はむしろ小田原藩のほうが高い。またそういった事情も含めて寺社奉行・町奉行・勘定奉行と老中 1名以上による評定所に持ち込まれ、合議の上で裁許された。裁許状に「御朱印載せらる権現領縁起の写四至牓示の図」とあるように、伊豆山権現は信頼のおける四至牓示の図を論拠として示せたが、小田原藩はそれができなかった、というだけだろう。
神仏分離後の現在は伊豆山神社。走湯大権現・伊豆御宮などとも呼ばれ、平治の乱 (平治元年,1160) 後に伊豆国へ配流となった源頼朝が再興を祈願したと伝わっている。
29.3. 天保郷帳・国絵図の村々
29.4. 伊豆・相模の国絵図
『元禄相模国絵図』に反映された裁許絵図には以下のように描かれた。


凡例・説明がないため厳密なところはわからないが、鮮やかに着色された部分 (『岩戸』『日金地蔵』がある岩山も含む) が伊豆国 (伊豆山権現領) と理解できる。その伊豆国内には「宮上村之内」と付記された「塩坪」「寺坂」「和泉」の 3集落が存在し、飛地となっている。
このほか国界に相対して着色が逆転している箇所がある。裏書の裁許状にも直接的な言及はないが、「田畑并小田原領林」と表現されているうちの「小田原領林」が伊豆国内にある無彩色の部分、これと交換で伊豆山権現に差し出されたのが相模国内にある彩色部分ではないかと推定される。なお、この争論と関係しない稲村はこの裁許絵図には含められていない。
次に相模国 足柄下郡の[『元禄改定図』を『正保改定図』に並べて示せば以下のとおり。

『正保改定図』では山陵で表現されていた国界は、『元禄改定図』では川筋に変更され、東へ移動した。以下に示すのは『天保相模国絵図』で、『元禄改定図』が継承され、川筋が国界として描かれている。

以下に示すのは『天保伊豆国絵図』で、伊豆国内に「相模国」と肩書され「宮上村之内」と付記された塩坪・寺坂・和泉の 3集落と稲村が存在するのがわかる。

なお、常陸国内にも下総国の飛地があったが、これは天保の下総国絵図に描かれ「飛地」と明記されている (『28.5. 長崎村ほか(5)』を参照)。
29.5. 元禄国絵図・郷帳との関係
元禄国絵図・郷帳では隣国相互の確認が義務づけられ、国界を巡る未決着の争論は許容されなかった (『8. 元禄国絵図』を参照)。時期が重なることから、本件もこれにともなって争論にまで発展したものと考えられる。おそらく日常的な小競り合いはあっても妥協的に解決されてきたものが、境界を明確化するとなれば伊豆山権現も黙認できず、土肥 (小田原藩) の住民も先鋭的な行動に出たのだろう。