オンラインで参照できる伊賀国絵図 (伊賀国の国絵図) のリストと詳細情報を提供しているページです。
↓一覧へ移動伊賀国は東海道に属する国である。国立公文書館所蔵の『天保伊賀国絵図』は勘定所旧蔵 (#764186) が現存・オンライン公開されている。また別に縮図(1/4) 2枚 (#764274・#764248) が現存する。

伊賀国については正保以降の国絵図 (『正保伊賀国絵図』『元禄伊賀国絵図』『天保伊賀国絵図』) が現存し、これは比較的充実しているほうである。また、三重県所蔵の『正保伊賀国絵図』を含む、同県関係の国絵図は『三重県史 別編 絵図・地図』(1994) で参照できる。しかし出版物のため解像度は限定され、またこの存在からか、国絵図を同県の誇るべき歴史遺産として積極的にオンライン公開しようという様子は、いまのところ三重県から感じ取ることはできない。
『日本六十余州国々切絵図 (余州図)』は、秋田県公文書館に 68国のすべてが現存し、秋田県公文書館デジタルアーカイブで公開されている。『日本六十余州国々切絵図』の通称も同館のものによる。『余州図』についての一般論は『6. 寛永国絵図・日本六十余州国々切絵図』を参照。
秋田県公文書館デジタルアーカイブでは『日本六十余州国々切絵図 伊賀国』が公開され、東西 84cm × 南北 69cm、ほかに『伊賀国[東海道図]』 が京都大学貴重資料デジタルアーカイブで公開され、大きさは東西 106cm × 南北 78cm、『〔伊賀国絵図〕』(#T1-54) が岡山大学 絵図公開データベースシステム で公開され、東西 108.4cm × 南北 78.0cm である。
『正保伊賀国絵図』は三重県所蔵のものが現存し、前述のように『三重県史 別編 絵図・地図』(1994)で参照できる。大きさは東西 180cm × 南北 203cm である。

解説によれば、本図は『元禄伊賀国絵図』作成時の写本に現状を反映したものと推定され、余白部分 (畾紙) にある目録に記載された国郡高が元禄時点であることと、山田郡最東端の宿駅が上阿波ではなく、元禄11年(1698) 以降※1であるはずの平松になっていることを指摘している。一方で国全体の形状は『元禄伊賀国絵図』とは明らかに異なるほか、国境記載は正保国絵図のものである。
なお、慶長13年(1608) 11月15日付『徳川家康知行宛行状写』※2によれば、この時点で藤堂高虎に「伊賀国一円拾万五百四拾石」が宛行われており、当時から伊賀国の国高は 10,540石である。つまり江戸前期においては元禄国絵図の段階まで変わっていないので、国郡高については問題とならない。
本図は三重県 Webサイトのコンテンツ『歴史の情報蔵』で『伊賀国絵図』として一応はオンライン公開されている。しかし「県史編さん班」によるコンテンツであって、「拡大」はできるものの、サムネイル画像 (300×333ピクセル) が 950×1,055ピクセルになるだけである。印刷物である『県史』のほうが細部まで読み取れる。
| 郡 | 三重県※3 | 寛文朱印留※4 | ||
|---|---|---|---|---|
| 阿拝郡 | 39,412.890石 | ※5 | 39,413.890石 | ※6 |
| 山田郡 | 16,499.020石 | ※7 | 16,499.020石 | ※8 |
| 伊賀郡 | 27,953.180石 | ※9 | 27,953.180石 | ※10 |
| 名張郡 | 16,673.912石 | ※11 | 16,673.910石 | ※12 |
| 総計 | 10,0540.000石 | ※13 | 10,0540.000石 | ※14 |
| ^ ※1: | ただし『大和街道・伊勢別街道・伊賀街道』(1984)によれば、元禄9年(1696) に決定され、移転完了は元禄10年(1697)。同史が参照する『大山田村史 上』(1982)でも同じ。 |
| ^ ※2: | 『三重県史 資料編 近世1』(1993) 所収、c.353。 |
| ^ ※3: | 一部判読が難しい部分は『三重県庁所蔵絵図類目録』(1993)で補う (c.5)。 |
| ^ ※4: | 寛文4年(1664) 4月5日付『藤堂高次宛領知判物・目録』、『寛文朱印留 上』(1980) 所収 cc.35-36。 |
| ^ ※5: | 「高三万九千四百拾三石八斗九升」。 |
| ^ ※6: | 「高三万九千四百拾三石八斗九升」。 |
| ^ ※7: | 「高壱万六千四百九拾九石弐升」。 |
| ^ ※8: | 「高壱万六千四百九拾九石弐升」。 |
| ^ ※9: | 「高弐万七千九百五拾三石壱斗八升」。 |
| ^ ※10: | 「高弐万七千九百五拾三石壱斗八升」。 |
| ^ ※11: | 「高壱万六千六百七拾三石九斗壱升弐合」。 |
| ^ ※12: | 「高壱万六千六百七拾三石九斗壱升」。 |
| ^ ※13: | 「高拾万五百四拾石餘」、斗以下は省略されている。 |
| ^ ※14: | 「拾万五百四拾石」、斗以下は省略されている。 |
国立公文書館所蔵、中川忠英旧蔵の国絵図群 (通称『日本分国図』) には伊賀国のものが含まれ現存するが (#714183)、オンラインでは公開されていない。
『福井』によれば、大きさは東西 184cm × 南北 235cm※1、記載されている石高は 10,540石※2で「この国、郡高は元禄郷帳のそれに符合するから、本図は元禄国絵図と考えられる」とされている。しかし、国高については前項 (三重県所蔵) のとおりであり、本図も『正保伊賀国絵図』の可能性が高い。詳細な再検討が期待される。
国立公文書館所蔵、松平乗命旧蔵の国絵図群 (通称『日本分国絵図』) にも伊賀国のものが含まれ、現存する (#725041)。オンラインでは公開されていない。
この松平乗命旧蔵の国絵図群には、松平乗命から明治政府へ渡る前後 (明治5~6年(1872~1873))に、京都府が一式を借用して忠実に模写したものも存在し、京都府立京都学・歴彩館に現存、館古044: 国絵図という一群で管理されている。その『伊賀国絵図』もオンラインでは公開されていないが、目録は国立公文書館デジタルアーカイブよりも充実し、国郡高が記載されている。
これをまとめれば以下のようになる。
| 郡 | 松平乗命旧蔵※1 | 寛文朱印留※2 |
|---|---|---|
| 彩郡※3 | 39,413.890石 | 39,413.890石 |
| 山田郡 | 16,499.020石 | 16,499.020石 |
| 阿我郡※4 | 27.953.180石 | 27,953.180石 |
| 名張郡 | 16.673.910石 | 16,673.910石 |
| 総計 | 10,0540.000石 | 10,0540.000石 |
上記のとおり、本図の国郡高は『正保伊賀国絵図』(三重県所蔵)やいわゆる寛文印知と変わらない。しかし前述のように伊賀国の国高は慶長13年(1608) から『元禄伊賀国絵図』まで変化がないため、国郡高から本図の性質を特定することはできない。
郡名に注目すると、本図では「伊賀郡」が「阿我郡」と表記されている。この「阿我郡」は元和5年2月28日付『藤堂高虎知行形目録』※5に「伊州阿我郡之内 猪田村」とあるなど、この時期の文書にみられ、『青山町史』(1979) によれば近世に入ってから伊賀郡を阿我郡と別称した例は多いという。一方、寛文4年(1664) 4月5日付『藤堂高次宛領知判物・目録』では「伊賀郡」であり、混乱のあった郡の再編成や名称の統一は寛文印知のときに集中することから、阿我郡についてはこのときに伊賀郡に統一されたと考えられる。
したがって、厳密には様式を確認する必要はあるものの、本図は『正保伊賀国絵図』である可能性が高く、かつ「伊賀郡」と表記される三重県所蔵や中川忠英旧蔵の存在からいえば、本来の内容を保ったものと考えられる。なお『名賀郡史』(1920/1973)には「正保の古図に阿我郡と記せり (正保の古圖に阿我郡と記せり)」とある。
| ^ ※1: | 京都府立京都学・歴彩館の目録による。 |
| ^ ※2: | 寛文4年(1664) 4月5日付『藤堂高次宛領知判物・目録』、『寛文朱印留 上』(1980) 所収 cc.35-36。 |
| ^ ※3: | 『藤堂高次宛領知判物・目録』では「阿拝郡」。 |
| ^ ※4: | 『藤堂高次宛領知判物・目録』では「伊賀郡」。 |
| ^ ※5: | 『三重県史 資料編 近世1』(1993) 所収、c.541。 |
『元禄伊賀国絵図』は三重県立図書館所蔵のものが現存し、『正保伊賀国絵図』(三重県所蔵) と同様『三重県史 別編 絵図・地図』(1994)で参照できる。大きさは東西 142cm × 南北 183cm である。

また、『元禄伊賀国絵図』は伊賀文化産業協会所蔵のものも現存し、デジタルミュージアム 秘蔵の国 伊賀で『元禄13年伊賀国絵図』としてオンライン公開され、ビューアも用意されている。
しかし初期画面に表示されるものがすでに最大サイズでその意味がほとんどない。サイズはわずか1,160×1,195ピクセルで、村名はもちろんのこと、ほかの大きめの文字も識別は難しい。ADEACをプラットフォームとして利用する諸機関では、ほかの多くで高解像度・高品質の国絵図を公開しているので残念でならない。
冒頭で言及のとおり、『天保伊賀国絵図』は国立公文書館に勘定所旧蔵 (#764186) が現存・オンライン公開されている。また別に縮図(1/4) 2枚 (#764274・#764248) が現存する。
紅葉山文庫※1は江戸城内にあった書庫、勘定所は勘定奉行を長とする役所であり、したがって紅葉山文庫旧蔵は保存と限定的な参照目的のために納められたもの、勘定所旧蔵は実務に供されたものとなるが、紅葉山旧蔵も必要に応じて借用・参照されたようである※2。
『天保伊賀国絵図』は東西 195cm × 南北 199cm、目録の奥書部分には、全国一律に天保9年(1838) の日付 (『天保9年戊戌五月』) と明楽飛騨守・田口五郎左衛門・大沢主馬の名前が記されている。天保国絵図一般については『9. 天保国絵図』を参照のこと。
| ^ ※1: | 「紅葉山文庫」はほかの各種用語と同様、近代以降の俗称・学術用語。近世は主に「御文庫」と呼ばれ、「官庫」とも呼ばれた。 |
| ^ ※2: | 『紅葉山文庫』(1980)。 |
『名張市史だより 第1号』(2006)によれば、『天保伊賀国絵図』の下絵図が市内個人所蔵として現存し、『天保の伊賀国絵図 下図』として外観が紹介されている。監修者による説明ではこれを「徳地本伊賀国絵図」と呼び、大きさは東西 180cm × 南北 197cmとある。
また同じ説明には「徳地本伊賀国絵図では五か所に修正内容を記した懸紙がつけられ、その一方の端を元禄国絵図上に貼りつけています」とあるものの、この「元禄国絵図」が「徳地本伊賀国絵図」のことなのか、別のものなのかはっきりせず、いずれにせよ文意がわからない。外観を見る限りは、明らかに幕府から提供された『元禄伊賀国絵図』の分割写本ではない。本図については興味深いことが多いが、これ以上はわからない。
→ 『凡例』
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