30. 堺付近
明治4年(1871) 摂津国 住吉郡の大和川以南 各村 (近世 七道村・遠里小野村・万屋新田・庭井村・北花田村・浅香山村・船堂村・花田新田・奥村・南島新田・弥次郎新田・大豆塚村、うち七道・遠里小野・庭井の各村は一部)、および堺町北組は和泉国 大鳥郡に編入され、摂津・和泉の国界は北へ移動した。

30.1. 経緯
変動前の摂津・和泉両国は、古代の条里と近世 堺町を囲む濠 (堀)、および堺町を南北に分ける大小路によって分けられていた。下に示したのは享保20年(1735) に刊行された『改正堺大絵図綱目』で、濠 (堀) に囲まれた町の中央を大小路が横切っているのがわかる。この大小路の北 (絵図では右) が摂津国である堺町北組、南 (左) が和泉国である堺町南組である。

しかし、宝永元年(1704) に大和川の流路が人工的に変更されて以降、摂津国の南東端には新流路によって地形的に分断される部分が生じた。『大阪府全志』によれば、まず行政上の不便を解消するため、明治元年(1868) 10月24日付で各村は堺県に統合された (ただし引き渡しは明治2年(1869) 1月20日以降※1)。堺県は和泉国の幕府直轄領を基盤とする県で、現在の大阪府の前身のひとつである。そして、明治4年(1871) 9月末付※2で国郡も改められ、国界が変更された。
30.2. 天保郷帳・国絵図の村々
30.3. 摂津・和泉・河内の国絵図
(1) 国界
大和川による摂津国の分断は『天保摂津国絵図』でも表現されている。下に示したのは、南東端を拡大したものであり、明治4年(1871) に和泉国へ編入されることになる村々が大和川によって地形的に分断されている。 国立公文書館所蔵)

ただし遠里小野・庭井 2村は川よりも北にあることからもわかるように、南にあった一部分が和泉国へ編入された (国絵図の村のオブジェクト (小判形) は、現実の村域に地形による分断があっても、代表される一方にしか配置されない)。「堺町」は城下と同様に小判形では表現されず、町を囲む濠 (堀) をあらわす墨線によってその範囲が示され、その墨線は国界を超えて橙で彩色された和泉国にまで伸びている。「摂和国境大小路」と示されている朱線が堺町を摂津・和泉の両国に分ける大小路である。国界のほかの部分は、距離や目印の明示によって描写されている。
次に示すのは『天保和泉国絵図』の北端を拡大したものである。和泉国は編入を受けるほうなので、本図には国界の変動に関係する直接的な描写はない。

しかし『天保摂津国絵図』に合うように同じ形状で描かれた国界付近の形状は興味深い。本図でも街道の朱線で引かれた大小路があって「堺大小路」と記載されている。また墨線であらわされた濠 (堀) の描写は『天保摂津国絵図』と同じである。なお、国絵図における地域性として、本図には田出井山古墳が「田出井」として、大仙陵古墳 (仁徳天皇陵) が「大仙陵」として描かれている (範囲を広げるとほかの古墳も描かれている)。
(2) 大和川の流路変更
国郡変更の要因となった摂津国 住吉郡の分断は大和川の流路変更による。大和盆地 (奈良盆地) 東部の山地を源流とする大和川は、盆地内で支流を集め、生駒山地と金剛山地の間を貫流して大阪平野へ流れ出ている。本来は、このあと北方へ分流しながら現在の淀川に相当する流路に合流していたところ、宝永元年(1704) に上町台地を横断する現在の流路が人工的に開削され、大幅に短絡された。
この景観も国絵図に描写されている。下に示したのは『元禄河内国絵図』であり、大和川は北へ向かって流れ、沼沢地を形成している。

一方、次に示す『天保河内国絵図』における大和川は、現在と同じように流れている。ただし「大和川」と明示されているのは旧流路だけである。この旧流路は細流として描かれ、途中で途切れている。
