変動前の摂津・和泉両国は、古代の条里と近世 堺町を囲む濠 (堀)、および堺町を南北に分ける大小路によって分けられていた。

宝永元年(1704) に大和川の流路が人工的に変更されて以降、摂津国の南東端には新流路によって地形的に分断される部分が生じた。大阪府全志によれば、まず行政上の不便を解消するため明治元年(1868) 10月24日付 (ただし引き渡しは明治2年(1869) 1月20日以降※1) で各村は堺県に統合された。堺県は和泉国の幕府直轄領を基盤とする県で、現在の大阪府の前身のひとつである。
そして、明治4年(1871) 9月末付※2で国郡も改められ、国界が変更された。
| ^ ※1: | 第1篇 第2章「攝津縣」に「其の當時之が引渡を爲すべかりしも、時方に收納期に際し、其の引渡を果たすに及ばずして本縣の設置となり、此に至りて之を決行せしものなり」などとある。 |
| ^ ※2: | 大蔵卿・大久保利通からの通達によるが、日付は記載されていない。これを受けた堺県から「惣年寄」へ宛てた通達には「未 九月晦日」とある。 |