
明治29年3月29日付 (官報 3月30日) の法律第40号 (東京府埼玉県千葉県茨城県境界変更法) による。
「新川」(現在の江戸川) の開削後、下総国 葛飾郡には流路によって地理的に分断される部分が生じた。近代に入ってさしあたり行政面の不便を解消するため、明治8年(1875) 下総国 葛飾郡のうち江戸川以西にある村々の管轄は、それまでの千葉県から埼玉県へ変更された※1。ただしこのとき国郡は変更されなかった。
明治12年(1879) 『郡区町村編制法』の施行にともなって、下総国 葛飾郡は埼玉・茨城・千葉の 3県で分割されて中葛飾郡・西葛飾郡・東葛飾郡となり、武蔵国 葛飾郡は東京府・埼玉県で分割されて南葛飾郡・北葛飾郡となった。この結果、埼玉県には「下総国 中葛飾郡」と「武蔵国 北葛飾郡」が併存することになった。
その後、明治29年(1896) 『郡制』の施行にともなう廃置分合の過程で、法律第40号により「下総国 中葛飾郡」は「武蔵国 北葛飾郡」に統合され、あらためて「武蔵国 北葛飾郡」となった。これによって、近世 下総国 葛飾郡のうち江戸川以西にある村々は武蔵国に所属することになった。
法律第24号 (明治28年(1895) 3月27日付) 埼玉県管轄下 武蔵国 北葛飾郡および同県管轄下 下総国 中葛飾郡を廃し、その区域をもって北葛飾郡を置き、武蔵国に属するものとする。 |
原文: 埼玉縣武藏國北葛飾郡及同縣下總國中葛飾郡ヲ廢シ其ノ區域ヲ以テ北葛飾郡ヲ置キ武藏國ニ屬ス。 |
金杉村は中葛飾郡に含まれる。このため前項によって下総国から武蔵国へ移ることになった。しかしそのうち大字金杉 (近世 下総国 葛飾郡 金杉村にあたる) の一部は前年、明治28年(1895) 3月27日付 (官報 3月30日) の法律第24号によって下総国 東葛飾郡 (千葉県管轄) 旭村に編入されていた。このためこの部分だけは下総国のまま変わらなかった。
法律第24号 (明治28年(1895) 3月27日付) 埼玉県 中葛飾郡 金杉村 大字金杉のうち江戸川以東は千葉県 東葛飾郡 旭村に編入する。 |
原文: 埼玉縣中葛飾郡金杉村大字金杉ノ内江戸川以東ハ千葉縣東葛飾郡旭村ニ編入ス。 |
位置・範囲は現在の野田市 金杉による。金杉村には東方の柳沢村に 12.8ヘクタールほどの林があったといい※2、現在の野田市 柳沢に接して「金杉」があって面積がおおむね一致する。
成因・用途はほかの飛地とは異なる。金杉村は平坦な低地にあり、稲作には適しているが (天保郷帳で 1,108石余)、薪炭材を採取できるような山林に乏しい。このため、はじめから飛地として確保した林だったとみられる。寛文5年(1665) の「野田町絵図」※3によれば、当時すでに清水村・堤台村 (堤代村)・中野台村 (中之代村)・上花輪村 (花𛄋村)・野田町は存在し、その向こうはのちに牧・新田として開墾される原野である。したがって多少距離は離れているものの、横内村近くの林を確保するしかなかったと思われる (横内村も同絵図に存在し、周囲には木々が描かれている)。
明治28年(1895) 3月27日付 (官報 3月30日) の法律第24号と、明治29年3月29日付 (官報 3月30日) の法律第40号 (東京府埼玉県千葉県茨城県境界変更法) による。近世 下総国 葛飾郡 向下河岸・向河岸の全体と内町の一部にあたる。法律第24号によって東葛飾郡 関宿町から中葛飾郡 豊岡村に編入され、その後下総国 中葛飾郡が武蔵国 北葛飾郡に編入されたことで、武蔵国に属することになった。
法律第24号 (明治28年(1895) 3月27日付) 千葉県 東葛飾郡 関宿町 大字向下河岸、および大字内町・大字江戸町のうち江戸川以西は埼玉県 中葛飾郡 豊岡村に、大字江戸町のうち権現堂川以北は茨城県 西葛飾郡 五霞村に編入する。 |
原文: 千葉縣東葛飾郡關宿町大字向下河岸及大字内町ノ内大字江戸町ノ内江戸川以西ハ埼玉縣中葛飾郡豐岡村ニ大字江戸町ノ内權現堂川以北ハ茨城縣西葛飾郡五霞村ニ編入ス。 |
関宿城下の江戸町 (関宿江戸町) のうち、江戸川 (新川) の開削によって分断された部分を「向河岸」、その南に展開された街並みを「向下河岸」といい、郷帳・国絵図では向下河岸としてまとめて把握され、総称としても向下河岸と呼ばれた※4。

法律第24号によれば、本来該当しない江戸町が含まれる一方で向河岸が含まれていないことから、向河岸は地籍上、江戸町のままだったようだ。

豊岡村に編入後、向下河岸と向河岸 (または向下河岸、および江戸町の江戸川以西) は統合されて「西関宿」となった。変動部分の位置・範囲は現在の幸手市 西関宿による。
新川 (江戸川) の開削によって生じた、国界である旧流路との間の狭隘な土地だったと考えられる。現在の野田市 関宿内町に着目すると、南限となる農道は『迅速測図原図』でも堤として確認できることから、区画はほとんど変わっていないとみなすことができる。その南限をそのまま延長すると、同じく迅速測図原図に描写される対岸の堤外地にかかるので、わずかながらその北端の部分が内町の飛地だったかと推定される。ただし向下河岸・向河岸に何らかの飛地があったのかもしれない。

| ^ ※1: | 太政官日誌 明治8年8月29日 (第112号) に「下総葛飾ノ一部移管轄替ノ事」として「其縣管下下總國葛飾郡ノ内、金杉村外四拾貳ケ村、別紙之通埼玉縣ヘ管轄換被 仰付候條同縣ヘ可引渡、此旨相達候事」とある (維新日誌 第10巻,1933)。 |
| ^ ※2: | 『武蔵国郡村誌』第15巻の「金杉村」の「飛地」に「本村東方柳沢村の内林」「十二町九反九畝十二歩」とある。 |
| ^ ※3: | 野田市立図書館 所蔵・公開。山崎村との境界を明らかにするために作成された。 |
| ^ ※4: | 関宿志(1973)・西関宿誌(1960)・幸手市史 通史編1(2002) |