28.4.2. 三郷・松戸

(1) 経緯と時期: 明治28年(1895)
明治28年(1895) 3月27日付 (官報 3月30日) の法律第24号による。近世 武蔵国 葛飾郡の大膳村・壱本木村・樋口村・徳島村・小向村のそれぞれ一部にあたる。
法律第24号 (明治28年(1895) 3月27日付) 埼玉県 北葛飾郡 八木鄕村 大字大膳・大字一本木の各江戸川以東は千葉県 東葛飾郡 馬橋村に、大字樋野口・大字徳島・大字小向の各江戸川以東は千葉県 東葛飾郡 明村に編入する。 |
原文: 埼玉縣北葛飾郡八木鄕村大字大膳ノ内大字一本木ノ内江戸川以東ハ千葉縣東葛飾郡馬橋村ニ大字樋野口ノ内大字德島ノ内大字小向ノ内江戸川以東ハ千葉縣東葛飾郡明村ニ編入ス。 |
位置・範囲は『大膳村地誌取調書上帳』※1・『大膳村麁絵図』※3をもとに大膳の飛地を特定し、これに地形や位置関係を考慮して一本木の飛地を推定した。
文政6年(1823) の『大膳村地誌取調書上帳』によれば、江戸川の曲流部を宝永2年(1705) に改修した際、およそ 1.5ヘクタールが飛地になってしまったといい※2、『大膳村麁絵図』にも具体的に描かれている。堤外地の不安定な流作場であり、別の『大膳村絵図』※4によれば「字中嶋」と呼ばれていた。

一本木村でも、やはり宝永2年(1705) の改修によって飛地が生じたという※5。この飛地について大膳の飛地 (字中嶋) と同精度の情報は得られないが、以下に示す状況から、同じ対岸堤外地の残余 (南半分) にあたると考えられる。
- 大膳・一本木の村界はそのまま同村飛地に続いている (『大膳村麁絵図』『大膳村絵図』)。これを迅速測図から読み取れる地形にあてはめると、大膳の飛地 (字中嶋) やこれ以外にあったかもしれない草苅場 (秣場・茅場など) を合わせても対岸堤外地の全体ではない。
- 一本木の飛地も大膳の飛地 (字中嶋) と同様、下総国 葛飾郡の主水新田と接していた※6。主水新田との位置関係を考えると、一本木の飛地は本体 (飛地以外) から見て北東にある必要がある。
- 堤外地の流作場と仮定した場合、江戸川流路や堤、南に近接する反対方向の旧曲流部 (後述) との位置関係からほかに余地がない。大膳の飛地 (字中嶋) が堤外地の流作場であることと一本木村の規模からいっても、対岸の堤内地に耕地があったとは考えづらい。
- 一本木の飛地も大膳と同様に不安定な流作場だったか、草苅場 (秣場・茅場など) だったと推定される。どちらも現在は河川敷になっていると考えられる。

享保16年(1731) に曲流部が直線化されたことで生じた。この飛地は範囲が広く、『 迅速測図・仮製地形図・迅速測図原図』のほか、現在の地図でも区割から明瞭に判別できる。基本的に樋野口が代表地名であり、現在の飛地部分も地理院地図では「樋野口」とだけある。それぞれ分村によって成立した経緯や虫食い的な新田開発によって、この付近の村々は入り組みが激しい。徳島・小向については、樋野口の地内にあった小区画だったと考えられる。
『 新編武蔵国風土記稿・新編相模国風土記稿』では「樋ノ口村」に、流路が村の中央を貫流し分断した、とあって規模の大きさを示唆している※7。「小向村」でも川向に 10戸の民家があったとされている※8、「徳島村」には直接の言及はないが「小向村」に、徳島村との入り組みについて言及がある※9。その入り組みの錯綜状況は近代はじめまで尾を引いて、地租改正の際、徳島村は樋野口村ともめた※10。なお、その記述や村の規模 (徳島村は小向村の半分程度)、『 新編武蔵国風土記稿・新編相模国風土記稿』で触れられていないことからいうと、徳島村については草苅場 (秣場・茅場など) か不安定な流作場だけだったと考えられる。
同じく明治28年(1895) 3月27日付 (官報 3月30日) の法律第24号による。近世 武蔵国 葛飾郡の岩野木村の一部にあたる。
法律第24号 (明治28年(1895) 3月27日付) 埼玉県 北葛飾郡 早稲田村 大字岩野木のうち江戸川以東は千葉縣 東葛飾郡 流山町に編入する |
原文: 埼玉縣北葛飾郡早稻田村大字岩野木ノ内江戸川以東ハ千葉縣東葛飾郡流山町ニ編入ス |
位置・範囲は『 迅速測図・仮製地形図・迅速測図原図』で明示されているその時点の国界 (変動前の国界) から特定した。

経緯はⒻの大膳・一本木飛地と同じであり、宝永2年(1705) の流路改修によって飛地が生じた※11。
同じく明治28年(1895) 3月27日付 (官報 3月30日) の法律第24号による。近世 下総国 葛飾郡の外河原村の一部にあたる。
法律第24号 (明治28年(1895) 3月27日付) 千葉県 東葛飾郡 馬橋村 大字外河原のうち江戸川以西は埼玉県 北葛飾郡 八木郷村に編入する。 |
原文: 千葉縣東葛飾郡馬橋村大字外河原ノ内江戸川以西ハ埼玉縣北葛飾郡八木鄕村ニ編入ス。 |
位置・範囲は『 迅速測図・仮製地形図・迅速測図原図』で明示されているその時点の国界 (変動前の国界) から特定した。Ⓕの大膳・一本木の飛地とⒼの間にある、両者とは反対方向の旧曲流部が該当する。同様に宝永2年(1705) の流路改修が要因※12。
同じく明治28年(1895) 3月27日付 (官報 3月30日) の法律第24号による。近世 下総国 葛飾郡の古ケ崎村の一部にあたる。
法律第24号 (明治28年(1895) 3月27日付) 千葉県 東葛飾郡 明村 大字古ケ崎のうち江戸川以西は埼玉県 北葛飾郡 八木郷村に編入する。 |
原文: 千葉縣東葛飾郡明村大字古ケ崎ノ内江戸川以西ハ埼玉縣北葛飾郡八木鄕村ニ編入ス。 |
位置・範囲は『 迅速測図・仮製地形図・迅速測図原図』で明示されているその時点の国界 (変動前の国界) から特定した。Ⓕの大膳・一本木の飛地の南に近接する、反対方向の旧曲流部が該当する。位置関係から、やはり宝永2年(1705) の流路の改修によると推定される。
なお『 迅速測図・仮製地形図・迅速測図原図』では、Ⓗの旧曲流部付近とは別にこの旧曲流部にも「外河原村」の表記がある。外河原村は村名からいってもⒽ・Ⓘおよびこれをつなぐ堤外地に細長い村域を持っていた可能性も否定できないが (2箇所がまとめて把握されてかまわない)、以下により混乱と判断した。
- 地理的にかなり離れており、間に主水新田・伝兵衛新田が介在する。8石余 (天保郷帳)・戸数9※13の村としては考えにくい。また迅速測図で確認する限りⒽの旧曲流部付近の家屋数で戸数9を満たしているように見える。
- 『 新編武蔵国風土記稿・新編相模国風土記稿』の各村東西南北の説明として外河原村に言及があるのは「岩野木村」と「市助村」(Ⓗ対岸) に限られ※14、「一本木村」や「横堀村」「長戸呂村」(Ⓘ対岸) にはない。
- 八木郷村編入後の大字外河原・大字古ケ崎は、翌明治29年(1896) それぞれ別の大字の一部となって消滅した。このときの編入先は、外河原が市助 (Ⓗ対岸)、古ケ崎が一本木・長戸呂 (Ⓘ対岸)※15。
注釈
(2) 天保郷帳・国絵図の村々
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| 近世 武蔵国 葛飾郡※1 |
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