
明治28年(1895) 3月27日付 (官報 3月30日) の法律第24号による。近世 武蔵国 葛飾郡の大膳村・壱本木村・樋口村・徳島村・小向村のそれぞれ一部にあたる。
法律第24号 (明治28年(1895) 3月27日付) 埼玉県 北葛飾郡 八木鄕村 大字大膳・大字一本木の各江戸川以東は千葉県 東葛飾郡 馬橋村に、大字樋野口・大字徳島・大字小向の各江戸川以東は千葉県 東葛飾郡 明村に編入する。 |
原文: 埼玉縣北葛飾郡八木鄕村大字大膳ノ内大字一本木ノ内江戸川以東ハ千葉縣東葛飾郡馬橋村ニ大字樋野口ノ内大字德島ノ内大字小向ノ内江戸川以東ハ千葉縣東葛飾郡明村ニ編入ス。 |
位置・範囲は『大膳村地誌取調書上帳』※1・『大膳村麁絵図』※3をもとに大膳の飛地を特定し、これに地形や位置関係を考慮して一本木の飛地を推定した。
文政6年(1823) の『大膳村地誌取調書上帳』によれば、江戸川の曲流部を宝永2年(1705) に改修した際、およそ 1.5ヘクタールが飛地になってしまったといい※2、『大膳村麁絵図』にも具体的に描かれている。堤外地の不安定な流作場であり、別の『大膳村絵図』※4によれば「字中嶋」と呼ばれていた。

一本木村でも、やはり宝永2年(1705) の改修によって飛地が生じたという※5。この飛地について大膳の飛地 (字中嶋) と同精度の情報は得られないが、以下に示す状況から、同じ対岸堤外地の残余 (南半分) にあたると考えられる。

享保16年(1731) に曲流部が直線化されたことで生じた。この飛地は範囲が広く、『迅速測図原図』のほか、現在の地図でも区割から明瞭に判別できる。基本的に樋野口が代表地名であり、現在の飛地部分も地理院地図では「樋野口」とだけある。それぞれ分村によって成立した経緯や虫食い的な新田開発によって、この付近の村々は入り組みが激しい。徳島・小向については、樋野口の地内にあった小区画だったと考えられる。
『新編武蔵国風土記稿』では「樋ノ口村」に、流路が村の中央を貫流し分断した、とあって規模の大きさを示唆している※7。「小向村」でも川向に 10戸の民家があったとされている※8、「徳島村」には直接の言及はないが「小向村」に、徳島村との入り組みについて言及がある※9。その入り組みの錯綜状況は近代はじめまで尾を引いて、地租改正の際、徳島村は樋野口村ともめた※10。なお、その記述や村の規模 (徳島村は小向村の半分程度)、『新編武蔵国風土記稿』で触れられていないことからいうと、徳島村については草苅場 (秣場・茅場など) か不安定な流作場だけだったと考えられる。
同じく明治28年(1895) 3月27日付 (官報 3月30日) の法律第24号による。近世 武蔵国 葛飾郡の岩野木村の一部にあたる。
法律第24号 (明治28年(1895) 3月27日付) 埼玉県 北葛飾郡 早稲田村 大字岩野木のうち江戸川以東は千葉縣 東葛飾郡 流山町に編入する |
原文: 埼玉縣北葛飾郡早稻田村大字岩野木ノ内江戸川以東ハ千葉縣東葛飾郡流山町ニ編入ス |
位置・範囲は『迅速測図原図』で明示されているその時点の国界 (変動前の国界) から特定した。

経緯はⒻの大膳・一本木飛地と同じであり、宝永2年(1705) の流路改修によって飛地が生じた※11。
同じく明治28年(1895) 3月27日付 (官報 3月30日) の法律第24号による。近世 下総国 葛飾郡の外河原村の一部にあたる。
法律第24号 (明治28年(1895) 3月27日付) 千葉県 東葛飾郡 馬橋村 大字外河原のうち江戸川以西は埼玉県 北葛飾郡 八木郷村に編入する。 |
原文: 千葉縣東葛飾郡馬橋村大字外河原ノ内江戸川以西ハ埼玉縣北葛飾郡八木鄕村ニ編入ス。 |
位置・範囲は『迅速測図原図』で明示されているその時点の国界 (変動前の国界) から特定した。Ⓕの大膳・一本木の飛地とⒼの間にある、両者とは反対方向の旧曲流部が該当する。同様に宝永2年(1705) の流路改修が要因※12。
同じく明治28年(1895) 3月27日付 (官報 3月30日) の法律第24号による。近世 下総国 葛飾郡の古ケ崎村の一部にあたる。
法律第24号 (明治28年(1895) 3月27日付) 千葉県 東葛飾郡 明村 大字古ケ崎のうち江戸川以西は埼玉県 北葛飾郡 八木郷村に編入する。 |
原文: 千葉縣東葛飾郡明村大字古ケ崎ノ内江戸川以西ハ埼玉縣北葛飾郡八木鄕村ニ編入ス。 |
位置・範囲は『迅速測図原図』で明示されているその時点の国界 (変動前の国界) から特定した。Ⓕの大膳・一本木の飛地の南に近接する、反対方向の旧曲流部が該当する。位置関係から、やはり宝永2年(1705) の流路の改修によると推定される。
なお『迅速測図原図』では、Ⓗの旧曲流部付近とは別にこの旧曲流部にも「外河原村」の表記がある。外河原村は村名からいってもⒽ・Ⓘおよびこれをつなぐ堤外地に細長い村域を持っていた可能性も否定できないが (2箇所がまとめて把握されてかまわない)、以下により混乱と判断した。
| ^ ※1: | 『三郷市史 第2巻 近世史料編1』(1990) 所収。 |
| ^ ※2: | 原文「反高流作場四町五畝拾五歩」(中略)「右之内壱町五反四畝拾弐歩飛地、是ハ下総国小金領主水新田村地所附ニ御座候処、宝永二酉年江戸川瀬大曲相成候ニ付、新規堀割被仰付候ニ付、飛地相成申候」。 |
| ^ ※3: | 『三郷市史 第2巻 近世史料編1(1990)』所収。モノクロかつ口絵のため判読しづらいが、ここで必要な情報を得るには支障ない。 |
| ^ ※4: | 『三郷市史 第6巻 通史編1(2005)』所収 (翻刻版)。 |
| ^ ※5: | 『新編武蔵国風土記稿』の一本木村に「又主水新田の内に飛地あり、元は地續なりしか寶永二年江戸川堀替の後對岸となる」とある。 |
| ^ ※6: | 『新編武蔵国風土記稿』では「主水新田の内」とあるが、成因からいって正確には主水新田とは接していただけと考えるのが合理的。過半を主水新田に取り囲まれ、あるいはさらに江戸川の流路に囲まれている状況を「主水新田の内」と表現しているのではないかと思われる。 |
| ^ ※7: | 原文「古は江戶川東界を流しを、享保十六年堀替ありしより、今は水流村の中央を貫きて村蕗兩岸に分てり」。 |
| ^ ※8: | 原文「江戸川の對岸に飛地あり、是は享保十六年江戸川堀替て直流せしめし時より川向となれるなり、彼所にも民戸十軒住せり」 |
| ^ ※9: | 原文「耕地は樋口長戸呂德島等に入會ひ」。 |
| ^ ※10: | 『三郷市史 第4巻 近代史料編』(1993) 所収の明治10年(1877)『夢物語』に顛末が記録されている。 |
| ^ ※11: | 『新編武蔵国風土記稿』の「岩野木村」に「江戶川の對岸木村に接して飛地あり、是も寶永二年川路堀替の後よりかく成來れりと云」とある。 |
| ^ ※12: | 位置関係および松戸市史 中巻 近世編(1978) による。 |
| ^ ※13: | 壬申戸籍の集計・明治5年(1872) 時点、松戸市史 下巻1 明治篇(1964)。なお、同 史料編5 秋谷家文書 下・八柱誌(1988) 所収の「請願巡査課出簿」によれば、明治15年(1882) 時点で戸数10。 |
| ^ ※14: | 原文、岩野木村「南は同郡外河原村の飛地」、市助村「東は江戶川に限り、對岸下總國葛飾郡外河原村」。 |
| ^ ※15: | 『埼玉県市町村誌 第18巻』(1979)。 |