27.5. (参考) 山中領の混乱
江戸前期の神流川上流では国界の混乱があった。ここまで扱ってきた国界の変動とは性質が異なるが、その規模の大きさなど興味深い点が多いので詳しく見ていこうと思う。
27.5.6. 経緯
近世の上野国 甘楽郡 神流川上流域は山中領と呼ばれ、上山郷・中山郷・下山郷に分かれていた。これは近代に入ってもほとんどそのまま上野村 (上山郷)・中里村 (中山郷の過半)・万場町 (はじめ神川村、中山郷の一部と下山郷) に引き継がれ、いわゆる平成の大合併の時期まで変わらなかった※1。神流川の深い谷は平地に乏しい一方で移動の制約になるような流量でもなく、上山郷・中山郷・下山郷とも日照条件に恵まれる左岸 (北岸) を主要部としつつ両岸に展開された。そもそも神流川は斜面をえぐるように曲流していて、道は歩行可能なところ (曲流部の内側) を探して両岸を移り渡ることになるので流路は境界にならない。
ところが『日本六十余州国々切絵図』によれば、上野・武蔵の国界は、絵図に表現されうる源流部までの神流川全体で表現され、上山・中山・下山の山中領 3郷は右岸 (南岸) である武蔵国に配されている (『日本六十余州国々切絵図』については『6. 寛永国絵図・日本六十余州国々切絵図』を参照)。


つまり以下のようになっている。

『群馬県多野郡誌』(1927/1977) が引用する『神川村郷土誌』(1910)※3によれば、「天正十一年以降織田信雄の一族上州甘楽郡を領したり」とした上で、「当時の石高を記したるもの」に「神流川右岸の地」は含まれず、下記のように把握されていたという (村の有無はママ)。
| #※2 | 村 | 石高 | |
|---|---|---|---|
| 111. | 柏木村 | 34.225石 | (三十四石二斗二升五合) |
| 112. | 生利村 | 50.340石 | (五十石三斗四升) |
| 113. | 万場村 | 110.840石 | (百十石八斗四升) |
| 114. | 塩沢村 | 54.840石 | (五十四石八斗四升) |
| 115. | 黒田村 | 72.690石 | (七十二石六斗九升) |
| 128a. | 尾井戸 | 21.365石 | (二十一石三斗六升五合) |
| 116. | 相原村 | 42.375石 | (四十二石三斗七升五合) |
| 117. | 下船子 | 28.195石 | (二十八石一斗九升五合) |
| 117d. | 高塩 | 19.175石 | (十九石一斗七升五合) |
| 117a. | 上船子 | 22.410石 | (二十二石四斗一升) |
| 117c. | 白石 | 11.375石 | (十一石三斗七升五合) |
| 117b. | 椹森 | 5.590石 | (五石五斗九升) |
つまり支配者 (さらにいえば、おそらく在地ではない支配者) が設定した、彼らにとってわかりやすい河川流路による領域 (境界) 認識が、実際にそこで生活する人々のそれとは乖離したまま江戸期まで継承され、それが日本六十余州国々切絵図に反映されてしまったらしい。
この国界は寛文上野国絵図・郷帳にほぼ継承された (源流部のみ異なる) 。一方、正保武蔵国絵図 (正保年中改定図) では分水嶺が国界として描かれ、その間の部分 (神流川右岸 (南岸) から分水嶺までの間) は上野・武蔵のどちらにも含まれてない状態 (空白域) になってしまった (『寛文郷帳』については『27.1.3. 寛文上野国絵図・郷帳』を、『正保年中改定図』については『15. 武蔵国(7)』を参照)。


寛文上野国郷帳には南岸の村々が含まれない。

正保年中改定図にも南岸の村々は含まれない。

元禄12年(1699) 5月『山中領村々上州・武州国境論争申立書』※4によれば、慶長3年(1598) の検地は分水嶺を境界として実施され、現実には実態にあった支配が行われた。しかし武蔵国 秩父郡の村々とは認識が一致せず、正保・寛文の国絵図・郷帳ではどちらも含めない形式で問題を先送りにしたらしい。
しかし元禄10年(1697) から15年(1702) にかけて改定が行われた元禄国絵図・郷帳では隣国相互の確認が義務づけられ、国界を巡る未決着の問題は許容されなかった (『8. 元禄国絵図』を参照)。このため上野国側 (山中領) と武蔵国側 (秩父郡 上吉田・中津川・河原沢・日尾・藤倉の 5村) の間で争論に発展し、最終的には上野国側 (山中領) の主張が通って上野・武蔵国界はようやく定まった。




天保国絵図もこのとおりに描かれ、現在の群馬・埼玉県境にもそのまま継承された。


『神川村郷土誌』(1910) は「当時の石高を記したるもの」として天正11年(1583) 以降 (厳密な時期は不明) の各村石高 (村高) を示している。しかし山中領の村々が石高で把握されるのは、元禄年間に入って依田らが行った検地 (元禄7年(1694) から実施、元禄11年(1698) に検地帳を配布) からであって、それまでは永高である。升の数値が 0か 5であることからいっても「当時の石高を記したるもの」は直接の史料ではなく、また数値も換算値だろうと思われる。
注釈
27.5.2. 天保郷帳・国絵図の村々
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| 近世 上野国 甘楽郡※1 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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上野村 泉龍寺に現存する写経奥書、『群馬県史 資料編6 中世2 編年史料1』(1984) 所収。第23巻に「願主西上州甘樂之郡山中之內遠西村之住輩」などとあるのは天和2年(1682) 8月の後筆。
注釈
27.5.3. 論点と争論の経過
(1) 武蔵国 (秩父郡5村)
『神川村郷土誌』に引用されている『元禄十三年二月武州方より代官へ差出したる書状』よれば、武蔵国側 (秩父郡 5村) は、神道裁許状の存在およびその記載内容を根拠に神流川が国界であると主張した。
元禄十三年二月武州方より代官へ差出したる書状 武蔵国と上野国の境界 (国界) は昔から神流川で間違いない。神流川を境界として南東川上は秩父郡、川下は児玉郡である※1 |
秩父領と山中領の境界 (領界) は昔から志賀坂峠・小越峠・坂丸峠・土坂峠 (がある分水嶺) である※2 |
野栗権現の祠官・黒沢石見守が裁許状を所持しているが、その裁許状には『武州秩父郡山中野栗権現の祠官・黒沢石見守』と書いてある※3 |
戸野村妙見の祠官・宮前和泉守が裁許状を所持しているが、その裁許状には『武州児玉郡山中妙見祠官・宮前和泉守』と書いてある※4 |
神流川を隔てた上野国の相原村丹生明神の祠官が裁許状を所持しているが、その裁許状には『上州甘楽郡相原村丹生明神祠官・宮前伊勢様』と書いてある※5 |
神道裁許状は、神職に与えられた免許状で、寛文5年(1665) 以降、幕府の支配体制のなかで制度化され、京の吉田家によって発行された。

一般に寺社における国郡認識は堅固で変化せず、より古い記憶をそのまま留めていることが多い (『22. 根羽村』や『28.3.2. 高椅』を参照)。また神道裁許状の性格上、公的な書類に相当する。つまり武蔵国側 (秩父郡 5村) の主張は正しい。
「野栗権現」(現在の乃久里神社、上野村 新羽字野栗※6) と「戸野妙見」(明治期の戸野神社、現在は戸野を含む神流町 生利の御鉾神社に合祀※6) は実際に妙見社 (妙見宮、現在の秩父神社) を勧請したもので※8、神道裁許状も妙見社から添状を得て取得していた。このため上野国側 (山中領) も扱いに困っていたようで、元禄13年(1700) 2月『山中領村々上州・武州国境画定につき願状』※7には以下のように書かれていた。
山中領村々上州・武州国境画定につき願状 新羽村の野栗権現の神職・石見 (黒沢石見守) は、元禄3年(1690) 武州秩父領大宮の近江守方からの添状 (同) を得て京都へ持参し、吉田様から裁許状をいただいた際、それには『武州秩父郡野栗』と書いてあったので、『上州甘楽郡』であると再三申し上げたものの、(受け入れらず) 添状のとおりに裁許状をいただいた※9 |
生利村の戸野妙見の神職・和泉 (宮前和泉守) は、貞享4年(1687) 武州秩父郡大宮村の宮本方より添状 (何らかの証書か紹介状) を得て京都へ行き、吉田様から裁許状をいただいたところ、それには『武州児玉郡山中下山』とあったが、あまり気にしないまま帰った。その後、国郡ともに間違っていることに気がついたものの、再度京都へ行くのも大変なので、そのままにした※10 |
しかし上記のとおりで変更できず、また「武州」の表記がある棟札について武蔵国側 (秩父郡 5村) から指摘されると、上野国側 (山中領) は「全体的に文字ははっきりしない」※11という苦しい弁明しかできなかった。
前述のように武蔵国側 (秩父郡 5村) は正しく、そもそも譲る必要はないが、その主張に固執する理由 (具体的な利害) があったとすれば、国界が分水嶺になれば野栗権現・戸野妙見 (乃久里神社・戸野神社) と妙見社 (秩父神社) の結びつきが失われることにあったのではないかと思われる。規模の大きい神社で祭礼が行われると、周辺の村々や関係のある神社 (末社) は分担金や奉仕を求められることが多い。2社が離れれば 5村の負担が重くなる懸念を抱いていたのかもしれない。
とはいえ幕府の裁許を求める争論では、江戸への往復・滞在費用のほか、役人への土産物などその費用は相当なものになる。元禄15年閏8月『山中領村々上州・武州国境論争裁許覚』※12によれば、武蔵国側 (秩父郡 5村) は最終的に国界が分水嶺であってもかまわないという姿勢を示した。結局その負担は妥協可能な範囲であって、生活に直接的な影響を及ぼすようなものではなかったのだろう。
(2) 上野国 (山中領)
上野国側 (山中領) の文書は先行するものとして、元禄12年(1699) 5月『山中領村々上州・武州国境論争申立書』※13と元禄13年(1700) 2月『山中領村々上州・武州国境画定につき願状』※14があるが、前述のように実態はともかく公式には武蔵国側 (秩父郡 5村) が正しいため、その主張はよくあるように回りくどく客観性・論理性に欠け、反論にも成功していない。また山中領としては客観性を追求したところで無意味なので、領内が二分された場合の生活の困窮に訴えるしかないが※15、どこか取り繕ったところがあって、伝わってくるものがない。
それを感じ取ったのか、元禄15年(1702) 6月『山中領村々上州・武州国境紛争につき故障口上書』※16では、内情が詳細に記載された。
山中領村々上州・武州国境紛争につき故障口上書 小百姓 (田畑の少ない農民) は、神流川の対岸の細々とした小作田で耕作しているので、それを理由とする慣習を頼りに (対岸で) 薪・秣も採取して生活している。これは山が荒れるので地主は不満だが、今までは村内のこととして双方の名主・乙名百姓 (村の自治にかかわる農民) が話し合って治めてきた。もし国界が神流川に定まって村が分かれれば、(不満を感じてきた地主は) 小作田で耕作できないようにするだろうから、農業を続けられない農民が日向・日陰ともにあらわれるだろう※17 |
年貢を納めるのに窮した百姓は、対岸の田畑を質に入れている。この場合も小作田と同じように (田畑があることを理由とする慣習を頼りに、対岸で) 薪・秣を採取していることについて、当分の間とはいえ質に入れた田畑に関しては、薪場・秣場の地主は同意しかねている。その上、別々の村になるようなことになったら、質に入れた土地をそのままにしておくことは難しくなって (すぐに借金を返さなければならない、または薪場・秣場の利用を諦めなければならないから) 日向・日陰とも百姓は困窮することになるだろう※18 |
つまり相互扶助もひとつの郷村であるから成り立つのであって、別々の郷村になれば簡単に瓦解することが明らかにされている。このほか焼き畑跡の相互利用 (薪場・秣場) や道・橋の修繕、茅葺き屋根の葺き替え (材料・人手の協力) も成り立たなくなることが記載された。
別の項目によれば、一般の入会地利用に関して、たとえば北岸の万場村が南岸の森戸村の入会地を利用する場合など証文を取り交わすケースもあったが、全般的には信頼関係で成り立っていた※19。しかし元禄7年(1694) から実施された検地では、そのような入会地をすべて書き出すことが要求された。これによって所有権・利用権を明確にしなければならなった結果、ありとあらゆる入会地で争いに発展する気配があったという※20。
『万場町誌』(1994)は、この争論の結果について「自分たちの主張を実現させるために山中領の百姓たちの示した底力は、躍動感にあふれ、その結束力と名主・長百姓を中心とした指導力は、後世にも語り継がれるべき出来事でもある」とあるが、どうだろうか。