27.6. (参考) 山中領の混乱

江戸前期の神流川上流では国界の混乱があった。ここまで扱ってきた国界の変動とは性質が異なるが、その規模の大きさなど興味深い点が多いので詳しく見ていこうと思う。

27.6.6. 経緯

近世の上野こうずけ甘楽かんら神流かんな川上流域はさんちゅう領と呼ばれ、かみやま郷・なかやま郷・しもやま郷に分かれていた。これは近代に入ってもほとんどそのままうえ村 (上山郷)・中里村 (中山郷の過半)・まん町 (はじめ神川村、中山郷の一部と下山郷) に引き継がれ、いわゆる平成の大合併の時期まで変わらなかった※1。神流川の深い谷は平地に乏しい一方で移動の制約になるような流量でもなく、上山郷・中山郷・下山郷とも日照条件に恵まれる左岸 (北岸) を主要部としつつ両岸に展開された。そもそも神流川は斜面をえぐるように曲流していて、道は歩行可能なところ (曲流部の内側) を探して両岸を移り渡ることになるので流路は境界にならない。

ところが『日本六十余州国々切絵図』によれば、上野・武蔵の国界は、絵図に表現されうる源流部までの神流川全体で表現され、上山・中山・下山の山中領 3郷は右岸 (南岸) である武蔵国に配されている (『日本六十余州国々切絵図』については『6. 寛永国絵図・日本六十余州国々切絵図』を参照)。

Fig.613 日本六十余州国々切絵図 武蔵国 (秋田県公文書館所蔵)Fig.614 日本六十余州国々切絵図 上野国 (秋田県公文書館所蔵)

つまり以下のようになっている。

Fig.188 山中領 (上野・武蔵国界): 日本六十余州国々切絵図: 寛永10年(1633)頃

『群馬県多野郡誌』(1927/1977) が引用する『神川村郷土誌』(1910)※3によれば、「天正十一年以降織田信雄の一族上州甘楽郡を領したり」とした上で、「当時の石高を記したるもの」に「神流川右岸の地」は含まれず、下記のように把握されていたという (村の有無はママ)。

#※2石高
111.柏木村34.225石(三十四石二斗二升五合)
112.生利しょうり50.340石(五十石三斗四升)
113.万場村110.840石(百十石八斗四升)
114.しおざわ54.840石(五十四石八斗四升)
115.くろ72.690石(七十二石六斗九升)
128a.尾井戸21.365石(二十一石三斗六升五合)
116.あいばら42.375石(四十二石三斗七升五合)
117.下船子28.195石(二十八石一斗九升五合)
117d.たかしお19.175石(十九石一斗七升五合)
117a.上船子22.410石(二十二石四斗一升)
117c.白石11.375石(十一石三斗七升五合)
117b.さわらもり5.590石(五石五斗九升)

つまり支配者 (さらにいえば、おそらく在地ではない支配者) が設定した、彼らにとってわかりやすい河川流路による領域 (境界) 認識が、実際にそこで生活する人々のそれとは乖離したまま江戸期まで継承され、それが日本六十余州国々切絵図に反映されてしまったらしい。

この国界は寛文上野国絵図・郷帳にほぼ継承された (源流部のみ異なる) 。一方、正保武蔵国絵図 (正保年中改定図) では分水嶺が国界として描かれ、その間の部分 (神流川右岸 (南岸) から分水嶺までの間) は上野・武蔵のどちらにも含まれてない状態 (空白域) になってしまった (『寛文郷帳』については『27.1.3. 寛文上野国絵図・郷帳』を、『正保年中改定図』については『正保年中改定図・元禄年中改定図』を参照)。

Fig.190 山中領 (上野・武蔵国界): 寛文上野国郷帳・国絵図Fig.191 山中領 (上野・武蔵国界): 寛文上野国郷帳・国絵図

寛文上野国郷帳には南岸の村々が含まれない。

Fig.567 寛文上野国郷帳 (部分・国立公文書館所蔵)

正保年中改定図にも南岸の村々は含まれない。

Fig.618: 新編武蔵風土記稿 巻之246: 秩父郡 正保年中改定図 (国立公文書館所蔵)

元禄12年(1699) 5月『山中領村々上州・武州国境論争申立書』※4によれば、慶長3年(1598) の検地は分水嶺を境界として実施され、現実には実態にあった支配が行われた。しかし武蔵国 秩父郡の村々とは認識が一致せず、正保・寛文の国絵図・郷帳ではどちらも含めない形式で問題を先送りにしたらしい。

しかし元禄10年(1697) から15年(1702) にかけて改定が行われた元禄国絵図・郷帳では隣国相互の確認が義務づけられ、国界を巡る未決着の問題は許容されなかった (『8. 元禄国絵図』を参照)。このため上野国側 (山中領) と武蔵国側 (秩父郡 上吉田・中津川・河原沢・日尾・藤倉の 5村) の間で争論に発展し、最終的には上野国側 (山中領) の主張が通って上野・武蔵国界はようやく定まった。

Fig.621: 上野国山中領・武蔵国秩父領国境立合絵図 (部分・山中領神原村黒沢家文書#571-48)Fig.623: 上野国山中領・武蔵国秩父領国境立合絵図 (部分・山中領神原村黒沢家文書#571-48)Fig.624: 上野国山中領・武蔵国秩父領国境立合絵図 (部分・山中領神原村黒沢家文書#571-48)Fig.625: 上野国山中領・武蔵国秩父領国境立合絵図 (部分・山中領神原村黒沢家文書#571-48)

天保国絵図もこのとおりに描かれ、現在の群馬・埼玉県境にもそのまま継承された。

Fig.626 天保上野国絵図Fig.627 天保武蔵国絵図
石高表記

『神川村郷土誌』(1910) は「当時の石高を記したるもの」として天正11年(1583) 以降 (厳密な時期は不明) の各村石高 (村高) を示している。しかし山中領の村々が石高で把握されるのは、元禄年間に入って依田らが行った検地 (元禄7年(1694) から実施、元禄11年(1698) に検地帳を配布) からであって、それまでは永高である。升の数値が 0か 5であることからいっても「当時の石高を記したるもの」は直接の史料ではなく、また数値も換算値だろうと思われる。

^ ※1: 現在は中里村・万場町で合併し神流町、中山郷・下山郷が行政的にはひとつになっている。
^ ※2: 本稿における村番号。『2. 天保国絵図・郷帳によるアプローチ(1)』を参照。
^ ※3: この神川村は旧・万場町が町制施行・改称する以前の神川村のことであり、近接する現・埼玉県 児玉郡 神川町の前身のひとつである旧・神川町が町制施行する以前の神川村のことではない。
^ ※4: 『群馬県史 資料編9 近世1 西毛地域1』(1977) 所収、#181・cc.203-204。