ここでは、江戸期 (江戸時代) に全国規模で作成されたと考えられている国絵図の最初、慶長年間(1596~1615) に作成された『慶長国絵図』について説明しています。
慶長国絵図
慶長国絵図は、江戸幕府の指示によって全国一律に作成された国絵図のうち最初のものである。慶長9年(1604) に通達が発布され、多くは慶長10年(1605) のうちに完成・献上されたが、一部は翌年にまでずれ込んだとみられている。
この慶長9~10年(1604~1605) という時期は、江戸幕府が成立して間もないころであり、当時は大坂に豊臣氏が健在だった。したがって、慶長国絵図の作成 (徴収) は、実用上の目的とともに「屈服」「臣従」を要求する意味もあったのだろう。内情を明らかにし、戦略上重要な情報を差し出すということは、降伏することにほかならないからだ。
また、「一国」という単位で作成されたことの意味も大きい。戦国大名の「領国」という枠組みは否定され、政権によって指定された国郡という画一的なシステムの中に否応なく組み込まれてしまう。それは「領国」を引き裂くという、心理的な打撃を与える効果さえあったのかもしれない。
主要諸元
慶長国絵図の主要諸元を以下にまとめる。
| 時期 | 慶長9~10年(1604~1605)※1、一部は慶長11年(1606)※2か。 |
|---|---|
| 幕府責任者 | 西尾吉次・津田秀政※3※4 |
| 分量 | 国絵図 3通・郷帳 3冊※5。 |
| 確認 | 提出前の内容確認 (内見) はなかったとみられる。 |
| 縮尺 | 指定なし (統一されていない)。 |
幕府責任者のうち、西尾吉次は東国を、津田秀政は西国をそれぞれ担当したとみられるが、具体的な分担 (国名) は不明である。以後の国絵図では、関係する絵図・帳簿類の提出は 2組が基本となるが、3組提出させているのは慶長国絵図が唯一である。これについては、当時伏見で政務を執り行っていた家康が手許におくためだったとも、あるいは禁中 (天皇) へ献上するためだったともいわれている。
注釈
慶長国絵図の一覧
慶長国絵図の一覧を以下に示す。
| 国絵図 | 根拠等 | ||
|---|---|---|---|
| 和泉国 | 目録奥書に慶長10年(1605) 9月の日付が記載されている。 | ||
| 摂津国 | 目録奥書に慶長10年(1605) 9月の日付が記載されている。 | ||
| 周防国 | 裏書に「京進ノ扣」(京へ進上した控) と明示されている。 | ||
| 長門国 | 裏書に「京進ノ扣」(京へ進上した控) と明示されている。 | ||
| 筑前国 | 絵図を収めた袋に「慶長年中公儀江被差出候御国絵図扣、壱枚」と記載されている。 | ||
| 豊後国 | 記載されている支配者の為政期間から推定される。 | ||
| 肥前国 | 記載されている支配者の為政期間から推定される。 | ||
| 肥後国 | 景観および貼られている付箋 (貼紙) の内容から推定される。 | ||
| 小豆島 | 目録奥書に慶長10年(1605) 10月の日付が記載されている。 | ||
上に示したのは、左 (左上) から順に『慶長和泉国絵図』・『慶長摂津国絵図』、および『慶長小豆島絵図』である。これら 3図はすべて、余白部分 (畾紙) に目録が存在し、その奥書には共通する責任者 (奉行) の人名と、慶長10年(1605) 9月または 10月の日付が記載されている。つまり、これらは慶長国絵図の副本または写本であることが直接確認できる一群である。当然ながら様式も共通しており、その後の規範となった部分も多い。ただし、『慶長摂津国絵図』の淀川以南 (図の右下端) の部分については、後年に書き加えられたものであり、純粋に慶長国絵図として作成されたのはこれを除く部分である。
上に示したのは、『慶長長門国絵図』 (左) と『慶長周防国絵図』 (右) である。これらは同じ萩藩 (毛利氏) によって一括して作成されたため、共通の様式で仕上げられ、外観も統一されている。また、一国単位の原則は守られているものの、両図は重ねて接合できる構造になっている点も特徴的である。これらが慶長国絵図であることは、絵図の裏書に「京進ノ扣」(京の伏見城にいた家康へ進上した際の控) と明確に書き残されていることからわかる。
上に示したのは、『慶長筑前国絵図』 (左)と『慶長肥前国絵図』 (右) である。前者は、絵図を収めた袋に「慶長年中公儀江被差出候御国絵図扣、壱枚」と記載されていることから、当時の控えであることが確認できる。
一方、後者の『慶長肥前国絵図』や『慶長豊後国絵図』『慶長肥後国絵図』については、文字による直接的な記録から慶長国絵図であると確かめられるわけではないが、描かれた景観や、記載されている支配者の為政期間から同国絵図であると推定されている。
関連する国絵図の一覧
慶長国絵図と考えられていた絵図など、関連する国絵図を以下に示す。
| 国絵図 | 根拠等 | ||
|---|---|---|---|
| 慶長越前国絵図 | 幕府の指示による慶長国絵図とは様式が異なる。景観や地名・支配者など、慶長9~10年(1604~1605) に作成されたと判断できる決定的な事物も見出せない。 | ||
| 慶長二年越後国絵図 | 同じ慶長年間(1596~1615) ではあるが、織豊期の慶長2年(1597) 作成と伝わる国絵図。ここで論じている慶長国絵図よりも古い段階のものである。 | ||
| 元和年間石見国絵図 | 元和3~5年(1617~1619) ごろの作成と推定されている。 | ||
| 慶長播磨国絵図 | 慶長16~17年(1611~1612) ごろの作成と推定されている。 | ||
| 〔備前国図〕 (T1-5) | 慶長年間(1596~1615) の作成と推定されているが、幕府指示による慶長国絵図とは様式が異なる。 | ||
| 阿波国大絵図 | 阿波国絵図としてはもっとも古いといえるが、具体的な作成時期は特定できない。 | ||
上に示したのは、左上から順に『慶長越前国絵図』・『元和年間石見国絵図』『〔備前国図〕』(T1-5)、および『阿波国大絵図』である。
様式と特徴
慶長国絵図の特徴としては、様式が「未統一」であること、国の形状が不正確で何らかの主観が内在すること、そして一国単位の原則が厳密には守られていないこと、の 3点があげられる。
様式
土佐藩の記録によれば、作成指示の通達において、郡ごとに田畑別の石高を記載すること、国界 (国境) には注意を払うこと、および絵図と郷帳との間で数値に差異を生じさせないことが求められたが、このほかは明文化されなかった。もっとも、実務レベルでは細かな指示・質疑応答があったとみられ、これによって詳細化された部分も多い。以下に慶長国絵図の様式をまとめる。
| 城下 | 具体的に描写されたものがある (周防・長門・肥前、および筑前の一部※1)。ただし、いずれも規模は控えめであり、周囲の縮尺を無視して巨大に描くような例はない。 | |
|---|---|---|
| 村 | 村高 (村単位の石高) がオブジェクトの外側に記載される点が大きな特徴である。土佐藩の記録によれば、これは実務レベルでの指示に基づいている。ただし、同記録でオブジェクトの形状は円で例示されているのに対し、実際の絵図ではさまざまで、統一されていない。特に、周防・長門・肥前では短冊形が採用されているが、この形状はのちの様式 (正保・元禄など) で淘汰されていくものとして注目される。なお、同記録では村高を朱書きとするように求められてものの、現存するどの絵図でも通常の墨書きで記されている。村名については、接尾辞を省略する例がみられるほか、漢字仮名交じり表記も混在する。 | |
| 宿駅 | 一般の村のオブジェクトとの区別はみられない。 | |
| 郡 | 全般 | 通達では、郡ごとに田畑別の石高を集計して記載することが求められた。実務レベルでは、これに田畑別の員数 (面積) と村数の集計が項目として加わり、さらに朱書きとするように指定された。ただし、様式や具体的な記載位置 (郡見出しへの併記か、あるいは目録として別記か) については明文化されなかったとみられる。 |
| 見出し | 短冊形の枠で囲まれているものが多く、かつそのバリエーションも多い。 | |
| 境界 | 表現方法が統一されていない。 | |
| 街道 | 実務レベルの指示では、ほかと異なる色で描くことが求められたものの、具体的な色の指定はなかった。しかし、現存する実際の国絵図では、すべて朱線で統一されている。一里塚・道程情報※2は原則として記載されておらず、一里塚の描写がある場合でもその記号は統一されていない。本道・脇道の区別がなされているのは『慶長摂津国絵図』が唯一であり、ほかの絵図にはみられない。 | |
| 航路 | 海に接している絵図であっても、明示されていないものが多い。 | |
| 国界 | 全般 | 通達では (隣国との関係について) 注意を払うことが求められたが、それ以上の具体的な仕様は要求されなかったとみられる。実際に、現存する国絵図の間で、様式の共通性は認められない。 |
| 国境 | 記載がある場合でも、簡単な表記にとどまる例が多い。 | |
| 隣国 | 『慶長摂津国絵図』を除いて施されていない。 | |
| 方角 | 記載のない絵図があるほか、例外的な形式も存在する。 | |
| 川幅 | なし。 | |
| 目録 | 有無・形式ともに統一されていない。 | |
このように、慶長国絵図の様式は全体として統一されてない。しかし、これはあくまで発展途上の「未統一」であって、無秩序な「不統一」ではない。実務レベルで細分化された様式も多く、その後の国絵図の改訂を経て、様式は段階的に詳細化・統一されていったとみられる。現存する慶長国絵図の中で、その後の様式にもっとも近いのは『慶長摂津国絵図』であり、本図がのちの規範となって全体の標準化が進んだのではないだろうか。
国の形状
程度の差はあるものの、どの国の形状も不正確である。ただし、それは乱雑に描かれたからではなく、むしろ、絵図としての完成度や様式美を追求した結果であり、そこにはかならず何らかの主観が反映されている。
一国単位の原則
一国単位の原則も厳格には守られていなかった。たとえば『慶長肥前国絵図』では、肥前国だけでなく壱岐国の全体や肥後国 天草郡、さらには筑前国 怡土郡の一部まで含めて描かれており、当時の支配者の領域を網羅することが目指されている。なお、このとき肥前国絵図に組み込まれた肥後国 天草郡については、当初『慶長肥後国絵図』には描かれなかったと推定され※7、整合性は保たれている。ここからいえるのは、肥前国絵図における天草郡などは、決して誤って混入されたものではなく、明確な方針のもとに描かれたということだ。
『慶長摂津国絵図』についても同じことがいえる。前述のように、本図の淀川以南 (図の右下端) の部分は後年に書き加えられたものであり、当初の慶長国絵図として作成されたのはそれ以外の部分だった。これについても、余白部分 (畾紙) の目録に「此外 六万千八十石欠郡内東成分河内國御帳入」と記載されており、明確な意図をもって淀川以南 (東成分) は河内国絵図側に描かれていたことがわかる。
この一国単位の原則が徹底されなかった背景には、あるいは、いまだ自らの「領国」を維持しようとする戦国大名たちの、ささやかな抵抗の痕跡といえるかもしれない。しかし、上記の実態から明らかなように、これらはすべて統一的な意思のもとで行われており、幕府自体もいまだ「領国」という枠組みから脱し切れていなかったことを示すものではないだろうか。
注釈
更新履歴
内容
:
- 追補の上で『近世国絵図総覧』のコンテンツに移行した。
:
- 『国絵図と国界』の一部として新規作成。











